人気ブログランキング | 話題のタグを見る

勘違い

勘違い_f0162149_23013257.jpg勘違い その1:
昭和5年、商工省が「自動車国産化促進」の大方針をかかげ、「国産標準自動車制作」という官民共同のプロジェクトを発足した、という。
メンバーは、当時の自動車国産三大メーカーであった、石川島自動車製作所、ダット自動車製造、東京瓦斯電気工業と、調整役として鉄道省の技術陣。
輸入車を徹底的に分解・試験して研究し、それをもとに国産標準自動車の設計を煮詰め、試作車両を製作・試験走行した後、昭和7年にプロジェクトは完了した。
その後、生産された市バスや軍用トラックなどの国産標準自動車は「いすゞ」と命名され、プロジェクトに参加した三大自動車メーカーは合併し、東京自動車工業、のちの「いすゞ自動車」となった、という。
この話を、高橋団吉著『新幹線をつくった男 島秀雄物語 (Lapita Books)』(島秀雄が鉄道省からこのプロジェクトに参加していた)で知った時、「あー、この前テレビのニュースで社長が出ていたいすゞ自動車!」と思った。
燃費試験を実際に行っていなかったことを、三角の白い眉毛の社長が会見で発表・謝罪していた、あの自動車会社の昔の成り立ちがこんなだったとは!と驚いた。
しばらくして勘違い_f0162149_23020790.jpg、そのトリビアを人に話そうとして、上手く話せず、家に帰って思い返していて、ハッ!と気が付いた。
白い三角眉の社長の会社は「スズキ自動車」だ!「いすゞ自動車」じゃない!!!
音と表記が何となく似ているので勘違いの巻。

勘違い その2:
姉がTVドラマ『重版出来!』が面白い、と言うので、
「あ、あれね。前に1~2回、チャンネルをごちゃごちゃ切り替えていて、ちょっとだけ観たことがある。黒木華が(早々に『真田丸』からいなくなったと思ったら、ここで)主演の。そうそう、香川照之が出ていたわね。彼は『99.9』にも出ているけど、ここにも出ていると思った」と返したのであるが、姉の反応に微妙なところがあった。
そして、何日か過ぎたある時に、ふいにハッ!と気が付いた。
あれは、香川照之ではなくて、小日向文世じゃあないの!!!
『真田丸』の小日向文世演じる秀吉のキャラクターが、『龍馬伝』での香川照之のキャラクターとダブってしまったのか、またまた、勘違い~。

重版出来は「じゅうはんでき」と読むのではなく、「じゅうはんしゅったい」と読むんですね。オドロキ。

音と見た目が何となく似ているので勘違いについては、霧立のぼると霧島昇、水戸光子と三浦光子、普通名詞では、かぼちゃとじゃがいも、という前科あり。


# by yamabato_za | 2016-06-15 23:31 | 山鳩の記 | Comments(0)

太宰治の手紙

太宰治の手紙_f0162149_21582483.jpg本棚に眠っていた文庫『愛と苦悩の手紙』、亀井勝一郎編の太宰治の手紙集。未読。自分で買ったものではなく、多分、姉が残していったものだと思う。初版昭和37年。これは昭和49年の二十版で、当時260円。
ページが薄茶色になり、古い臭いもするので、面白くなかったら処分するつもりで読み始める。
前半は、お金の工面に関しての、くどい言い訳のような内容ばかり。しかし、甲府居住頃より穏やかになり、三鷹に住むようになってからは、なかなか興味深かった。

昭和20年6月、疎開先の甲府から、三鷹の自分の家に居る弟子の小山清宛のはがき。
「・・・何か君の生活に小さな危機があるような気がする。それは、このはがきを読んだ日から必ず克服しなければならぬ。そのために、
一、甲府行きは、しばらく断念すること。こんどは、ぼくのほうで、米を持ってあそびに行きます。タバコも心配するな。
一、オバサンや、友人たちに対し、気まえよくせぬこと。拒否する勇気を持つこと。(まちがいのない、小さい孤独の生活を営め!)
一、会社のツトメと、帰宅してからの読書と、執筆と、この三つ以外に救いを求めぬこと。
以上、たのむ!このハガキには返事不要。
滝のごとく潔白なれ!
滝は跳躍しているから白いのです。
めめしさから跳躍せよ!
おまえも三十五じゃないか。」

昭和21年4月の河盛好蔵宛の手紙では、文化について。
「文化と書いて、それに、ハニカミというルビをふること、大賛成。私は優という字を考えます。これは優(スグ)れるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、でも、もう一つ読み方があるでしょう?優(ヤサ)しいとも読みます。そうして、この字をよく見ると、人偏に、憂うると書いています。人を憂える、ひとの寂しさわびしさ、つらさに敏感なこと、これが優しさであり、また人間としていちばん優れていることじゃないかしら、そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(ハニカミ)であります。私は含羞で、われとわが身を食っています。酒でも飲まなきゃ、ものも言えません。そんなところに「文化」の本質があると私は思います。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、まけるものです、それで良いと思います。私は自身を「滅亡の民」だと思っています。まけてほろびて、そのつぶやきが、私たちの文学じゃないのかしらん。」

昭和19年、太宰の『佳日』が東宝で映画化されたらしい。『四つの結婚』というタイトルで、入江たか子・山田五十鈴・高峰秀子・山根寿子らが出演。
昭和19年7月の津島礼(津軽の親戚)宛のはがき:
「・・・きのう、東宝サツエイ所へ行き、入江たか子だの、山田五十鈴だのにかこまれて、写真などうつしましたが、なんだか、ゲビテあまりいい感じのものではございませんでした。・・・」

昭和20年の井伏鱒二宛の手紙には、成瀬巳喜男監督の『妻よ薔薇のように』でヒロイン千葉早智子の父親を演じた丸山定夫の名前が!
「・・・丸山定夫氏が広島で、れいの原子バクダンの犠牲になったようですね。ほんとうに私どもの身がわりになってくれたようなものです。原始バクダン出現の一週間ほど前に私によこした手紙が、つい先日金木につきましたが。虫の知らせというものでしょうか。妙に遺書みたいなお手紙でした。縞の単衣があるから、あれをおまえにやる、などと書いていました。惜しい友人を失いました。・・・」

昭和21年3月の伊馬春部宛の手紙にも丸山定夫が出てくる。
「・・・いま「冬の花火」という三幕の悲劇を書いています。・・・丸山定夫が死んだのは、なんとも残念。戦争は羽左衛門と定夫を奪いました。民主主義になって、私の思想は、べつに変わりはありません。・・・」
(羽左衛門とは、多分、昭和20年5月に亡くなった十五代目市村羽左衛門のことだろう。)

昭和20年9月の田中英光(弟子の一人)宛の手紙には『パンドラの匣』のことが書かれている。
「・・・私は、そうは言うものの、どうも、なまけてばかりいて、はなはだ面目ないしだいです。しかし、あすから精を出します。まず、仙台河北新報にレンサイ小説を書くつもり、しかし百回くらいでカンベンしてもらうつもり、さし絵は中川一政で稿料も一枚十円くらいらしいから、まあ新聞小説としては、ほどよい条件だろうと思います。題は「パンドラの匣」としました。うまくゆくかどうか、はなはだ心細く憂鬱です。・・・」
(注に「パンドラの匣」の挿画を実際に担当したのは恩地幸四郎とある。)

昭和21年10月の伊馬春部宛の手紙には、
「・・・いなかにいると、周囲が陰ウツですから、暗いものばかり書くようになります。「パンドラの匣」は、きょう河北新報へ伊馬様に二部お送りするよう言ってやります。一部は折口先生に恭献させてください。パンドラはまた、あまりに明るすぎ、希望がありすぎて、作者みずからもてれているシロモノですから、折口先生も、これはも少し暗くてよいとおっしゃるかもしれません。」
とある。やはり『パンドラの匣』は明るいのだ。
【追記:ここに出てくる折口先生とは折口信夫のこと。
折口信夫は歌人でもあり、歌人としては釈迢空(しゃくちょうくう)と名乗っていた。伊馬春部は釈迢空(つまり折口)門下の歌人であり、また、ユーモア小説家でもあり、1947年から放送されて人気となったNHKラジオドラマ『向う三軒両隣り』の原作者。
『向う三軒両隣り』は1948年に東宝で映画化され、柳家金語楼、江川宇礼雄、清川虹子らが出演している。
太宰の短編『畜犬談』は伊馬春部に捧げられたものだとか。以上、主にウィキペディア情報。
折口信夫が出てくる過去の記事あり)】

昭和21年7月、葛西久二(弟子の一人)宛の手紙には、さらに知った名前が。
「拝復 オニクがないからって、キャンキャン泣いて、八ツ当たりして、まことに見っともない。涙をふいて、鼻をかみな。『展望』六月号の『冬の花火』読みましたか。きょう川口松太郎という人(この人は新生新派のマネージャーらしい)から、母親花柳章太郎、数江水谷八重子でやりたいから、上演権を、と言ってきましたが、あの芝居は、もっとこじんまりした劇団のほうがいいのではなかろうかとも考え、返事を保留しています。次の戯曲も、きのうあたりからやっと目鼻がつき、さらに苦闘中です。好評も悪評も、作家の身をけずる精進には追いつきません。勉強たのむ。不一」
川口松太郎は小説家でもあり、『鶴八鶴次郎』で昭和10年第一回直木賞を受賞、田中絹代・上原謙主演で映画化され大ヒットとなった『愛染かつら』の原作者。この手紙の後に大映の専務になるのだが、太宰は川口のことはよく知らなかったもよう。

昭和21年の手紙には、『冬の花火』『春の枯葉』という三幕悲劇のことが、繰り返し出てくる。
『冬の花火』について、川口松太郎から水谷と花柳で上演したいとの申込があったことも繰り返し手紙に出てくるが、上演日が確定していないとの記述があり、実際に舞台になったかどうかは不明。
(ウィキペディアに、昭和21年12月GHQより上演中止を命じられたとある。)
『春の枯葉』は昭和22年、伊馬春部の脚色・演出によってNHKでラジオ放送されたという。
昭和22年6月、伊馬春部宛の手紙にも、
「・・・さて、あの夜のラジオ、あの夜は酒も飲まずに家にいて家のラジオにしがみついていましたが、いかんせん安物ラジオで、第二放送は、耳を押しつけてやっとかすかに聞きとれるくらい、まことに心細く、それで、何も申しあげることはありません。・・・聞いた人からの批評は、「すこしむずかしすぎる」というのが圧倒的に多いようです。」
とある。
演劇界に衝撃を与える意気込みで書いた戯曲は、不発に終わったようである。

『お伽草子』を読んだ時にも感じたことだが、太宰治という人は、世の中を一歩引いたところから、囚われることのない目と心で見ることのできる、まともな頭のいい人に思われた。

昭和21年1月、井伏鱒二宛の手紙に、
「・・・未帰還の友人が気になっていけません。お宅では皆様おじょうぶですか。私のところも、おかげさまでどうやら、酒もありタバコもありますが、恋愛のまねごとでもできそうな女性がひとりも見つからず。ムシャクシャしています。私ももう三十八になりましたけど。・・・」
とあり、あ~やっぱりイメージ通りの太宰、、、がここでは垣間見えるが。

太宰の書簡集は他に弟子の小山清がまとめたものなどがあるらしい。
この亀井勝一郎編、小山清編の『太宰治の手紙』と区別する必要があったとしても、どうして「愛と苦悩の」なのか!?全くいただけない。

メモ1:
太宰原作の映画『四つの結婚』(昭和19年、63分)は、監督:青柳信雄、脚本:八木隆一郎、上記四人の女優他、河野秋武、藤田進が出ているらしい。この男優二人は、黒澤明の『わが青春に悔いなし』にも一緒に出ている。
映画の舞台は目黒雅叙園だとか。戦時下の中での明るい映画だったとの情報あり。

メモ2:
丸山定夫は、昭和初期、新築地劇団で、ゴーリキー『どん底』のルカ、チェーホフ『桜の園』のロパーヒンなど、90以上の役を演じた。モリエール『守銭奴』のアルパゴン役が当たり役だったという。(ウィキペディア情報)

太宰治と丸山定夫の出会いは、丸山からのアプローチ。ウィスキー持参で丸山がやって来たと『酒の追憶』で太宰が書いているとのこと。(青空文庫で読める)(ネット検索情報)

太宰の弟子・小山清の遺稿集『二人の友』には、太宰治と丸山定夫のことを書いたものが入っている。(ネット検索情報)


# by yamabato_za | 2016-06-06 22:47 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

藤森照信の『建築探偵の冒険 東京編』

無印良品にソックスを見に行ったのだが、フロアの片隅に本が並べられていて、手に取ったのが藤森照信『建築探偵の冒険〈東京篇〉 (ちくま文庫)』。(東京編とあるが、東京編しかない模様。)
今になって初めて知ったこの本であるが、1986年に単行本として出、1989年に文庫本になったもの。もう30年たっている。

この本で語られている建物や場所は、
1)金属金物やランプなどを今和次郎がデザインしたという白金台の洋館
2)神田や神保町にある(あった?)看板建築
3)神保町の東洋キネマ
4)東京駅
5)皇居前広場
6)横浜ニューグランドホテルと第一生命館
7)聖路加国際病院
8)信濃町のデ・ラランデの家
9)兜町と田園調布
である。
しかし、現在ではそのほとんどが当時とは状況を異にしているようだ。

藤森照信の『建築探偵の冒険 東京編』_f0162149_16532643.jpg
1)の白金台の洋館は、当時はスリランカ大使館だったが、現在では結婚式場として使われている。
3)の東洋キネマは1992年に解体されてもうない。
4)の東京駅は、皆様ご存じ、2012年建築当時の姿に復元された。
8)のデ・ラランデの家は、江戸東京たてもの園に移築され、信濃町にはもうない。

上記9つの話の中で非常に興味深かったのは、デ・ラランデの家と兜町と田園調布のこと。

建築史家の藤森照信は建築探偵団と称して、気になる建物のフィールドワークをする。
中央線に乗って、四谷を過ぎたころに車窓から見える赤い洋館に魅かれて訪問すると、そこの住人はカルピスを作った三島海雲の未亡人。
三島未亡人の語る話も興味深い。
この洋館を設計したデ・ラランデはドイツから1903年に日本にやってきた建築家で、何と!朝の連続テレビ小説で一躍有名になった神戸の風見鶏の家を設計した人だという。
彼は1914年、41才で日本で没し、その夫人と5人の子供らは祖国ドイツに帰る。
しかし、夫人はドイツの日本大使館で東郷茂徳書記官の通訳兼秘書として働くことになり、二人はやがて恋に落ち結婚。
元デ・ラランデ夫人は東郷夫人として日本に戻ってきて、、、云々と「ヘーッ!」というお話が続く。

このデ・ラランデの家が、三島由紀夫の『鏡子の家』で描写される鏡子の家ではないか、との推理が述べられている。
しかし、ウィキペディア情報では、猪瀬直樹が自分の著書で、鏡子の家は品川にあると書いているらしく、デ・ラランデの家=鏡子の家という、そうであったら一層面白い説は残念ながらないのかもしれない。

さらに、ネットで調べてみると、この家はもともとは、気象学者の北尾次郎が自ら設計した平屋の自邸であったが、それをその後3階建てに増築したものであり、その増築の際の設計もデ・ラランデではなく北尾次郎であるとの説も出ていて、はっきりしないらしい。

ちなみに、原爆ドームを設計したのは、デ・ラランデのもとで働いたことのあるチェコ人のヤン・レツル。
また、ヤン・レツルが、このデ・ラランデ邸にデ・ラランデが住む前に住んでいたとの情報もある。

(30年たっていることもあり、面白いけれどすべての内容を鵜呑みにはできないかもしれませぬ。)

兜町と田園調布についての章のタイトルは「東京を私造したかった人の伝」。
その人とは連続テレビ小説『あさが来た』にも出てきた渋沢栄一。
日本橋一帯が三井、丸の内一帯が三菱となった経緯とその駆け引きなどが次々と語られていて、これまた非常に興味深い。
そして、田園調布が渋沢栄一が計画したものだったとは!

メモ1:
この本の中で、著者が訪れたという当時大蔵省所有で三田綱町にあった旧渋沢邸は、1991年、青森県の古牧温泉渋沢公園内移築されている。
メモ2:
渋沢栄一が第一銀行を去る時に、第一銀行社員一同から誠之堂を、清水建設から晩香廬を贈られたとあるが、2つの建物の紹介サイトの記述によると喜寿(77才)のお祝いとなっている。
誠之堂は平成11年、渋沢栄一の生地である深谷市に世田谷から移築され、晩香廬は北区の飛鳥山公園内にあり。
メモ3:
渋沢栄一がパトロンとなった辰野金吾。その息子はフランス文学者の辰野隆。隆は「ゆたか」と読む。


# by yamabato_za | 2016-05-16 17:15 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

裸の大将

『めし』で原節子&上原謙夫婦の向かいに住む2号さんを演じた音羽久米子の出演作の1本であり、成瀬巳喜男が監督するはずだったとの話もあり、観たいと思っていた堀川弘通監督の『裸の大将』(1958年)を観た。
山下清に小林桂樹、清の母に三益愛子、清が働いた弁当屋の主人に有島一郎、清に仕事を紹介してあげるおばさんに沢村貞子ほか、団令子(超キュートなバスガイド)、柳家金語楼、三木のり平、柳谷寛、中村是好、左卜全など、人気役者が次々に登場。東野英治郎、坂本武、藤木悠、飯田蝶子、賀原夏子、千石規子、コロムビア・トップ、コロムビア・ライトも出ていたらしいが、あまりにも登場時間が短くて印象に残っていない(音羽久米子も)。
最後の部分は風刺的な臭いがして興醒め。クレージーキャッツの登場もゴタゴタし過ぎでもったいない。まあ、全体としては楽しく鑑賞。

裸の大将_f0162149_18201233.jpg山下清はどこに行くにもペンと鉛筆を携帯し、そこかしこでスケッチをしているものと思っていたが、あれれ、、、そんな場面はなく、、、

家にあった『生誕80周年記念山下清展』カタログと図書館で借りた『山下清の放浪日記』(池内紀編・解説)を読むことに。

1922年 東京の台東区に生まれる。翌年、関東大震災で家が焼失。
3才の時、重い消化不良の後遺症で、軽い言語障害・知的障害となる。
10才の時、父、死去。母、再婚。周囲のいじめにあう。
12才の時、母、離婚。母とともに杉並区和田掘の社会福祉施設に入る。また、学校でいじめにあったため、千葉の養護施設「八幡学園」に入園。教育の一つとして貼絵を始める。
17才の時、銀座の画廊に展示されて大きな反響をよぶ。
18才の時、八幡学園から姿を消す。千葉県各地を放浪。
3年後ふらりと帰って来て、貼絵を制作し、放浪中の出来事を書き綴る。しかし、再び出ていく。その繰り返し。
1953年、31才の時、アメリカのグラフ雑誌『ライフ』が貼絵に注目し、放浪中の清を捜し始める。翌年、鹿児島で発見される。
1956年、東京・大丸で「山下清作品展」開催

裸の大将_f0162149_18205355.jpg(←12才の時の貼絵)
日記も貼絵も、八幡学園で毎日の作業として課せられたもので、有名になってからは、仕事として行っていたという。
(有名になる前の放浪中はスケッチなどしなかった、ということだ。)

池内紀氏は山下清のことを「若くもなく幼くもなかった。純でも無垢でもなく、明るくも暗くもなく、少年でも老人でもなく、愚か者でも賢者でもなかった」と書いている。「純でも無垢でもない」の部分はよくわからないが、他の部分についてはそうなんだろうと思う。
小銭や食べ物をもらうために、嘘を自覚的に策略的についている。
それを悪いと思っていない。しかたないことだと思っている。
無理はしない。良く考えて行動する。
放浪中は、もっぱら駅舎で寝ていたが、駅員がいると追い出されるので、駅員がいなくなるまで外で待った。
大きな駅では追い出されやすいため、小さい駅を選んで宿とした。
お金を使わないように駅から駅へと歩くことが多かったが、長く歩くと疲れるのを知っていて、適当な駅までは切符を買って電車に乗ることもあった。
嘘を言ってでも食べ物をもらうけれど、無理強いはしない。この人が駄目なら、もらえる人に会うまで歩き続けるということを厭わなかった。
ズボンやシャツがボロボロになると新しい物を買っている。そのお金は人からもらった小銭を貯めて築く。(塵も積もれば山となる方式)
富士山や日光など行きたいところに行くことを楽しみにしている。
駅の待合室などで休んでいる時、よく退屈する。退屈すると人とおしゃべりをしている。
以下、『山下清の放浪日記』より、人とのおしゃべりの場面のいくつか。そこには、穏やかな生活の知恵、用心の心得が見出される。

裸の大将_f0162149_18213635.jpg(←15才の時の貼絵)
【郡山であった事】 より
「人の心は顔を見れば分るとよくいうので、おとなしい顔をしても聞かん坊な人も居るので、正直な顔をしてもずるい人は沢山居て、不正直な顔をしても正直な人は沢山居る。やさしい顔をしても心が鬼になって居る人も沢山居るので、其のほか女の人は情があるとよく云うので、女の人でも薄情な人も沢山居て、男の人でも情のある人も沢山居るので、情のあるような顔をして薄情の人も居るので、知らない人の顔を見ても心は分らない」
知らない人の顔を見ても心は分らない ― 清が放浪生活の実体験から得た経験則だろう。
この話し相手は若いルンペンで「ボロでもいいからズボンをくれ」と言われる。清は自分が寒い思いをするからあげたくなかったが、あげないと言うと何をされるかわからないので、彼と一緒に降りる予定だった駅では降りず、うまくはぐらかした。→自己防衛の知恵あり。
清の書く文章は上記のようなもので、とても読みにくい。
【汽車道をどして歩くかという事】 より(多少読みやすく変更)
岩沼駅の待合室で休んで居る時、退屈でよその人と話をした。
「乞食をしても、病気にならない様に気をつけていれば大丈夫だろうと思うんだ」と云ったら、よその人が「病気にならない様にいくら気をつけて居ても、病気になる時もある。食い過ぎをしたり少しぐらい悪い物を食べても、お腹をこわすとは限らない。こういう事はいちがいには云えない」と云うので「おれは毎日三里も四里も歩いているから、足が丈夫になるだろう」と云ったら、よその人が「毎日歩いても、足が丈夫になる人とならない人が居る。運動もやり過ぎると身体を壊してしまうので、加減が少しむずかしい。何でも度を過ぎると失敗してしまう」と云われた。

裸の大将_f0162149_18222355.jpg(←17才の時の貼絵)
【伊香保の温泉に入る事】 より(多少読みやすく変更)
「(温泉に入ると)どんな病気でも治りますか?」
よその人「その人の体質によって、温泉に入って病気の治る人と治らない人が居る。」
「この温泉に入ると疲れがなおりますか?」
よその人「疲れがなおる人となおらない人が居る。その人の体質だから。」
「体の弱い人や心臓が弱い人は、温泉に入ると体が強くなったり、心臓も強くなってきますか?」
よその人「心臓の弱い人は、温泉に入るともっと弱くなってしまう。体の弱い人はだんだん丈夫になってくる。でも、急には丈夫にならない。1ヶ月か2ヶ月位入るとなおるかもわからないが、その人の体質だから、1ヶ月入っても半年入っても丈夫になる人とならない人が居る。温泉は薬だと思って、一日に何回も入り過ぎると効き過ぎてしまって体の弱い人はもっと弱くなってしまう。何でも程度があるんだから」

裸の大将_f0162149_18353722.jpg(←母ふじと山下清
画像はすべて『山下清展』カタログより)

日本ぶらりぶらり (ちくま文庫)』は、有名になってからの放浪の旅を書き綴ったものらしい。
こちらもちょっと気になります。

# by yamabato_za | 2016-04-24 19:00 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

負けない大統領、守られた元大統領

負けない大統領、守られた元大統領_f0162149_23592951.jpg先週の木曜日、オランド大統領は「国民との対話」と題されたTV番組に出演した。
最近のアンケートで、また、人気が下がっていた大統領。
進行役のニュースキャスター・サラメ女史は厳しい態度で対したという。
例えば、「移民に対する姿勢はドイツのメルケル首相と同じです」
とオランド大統領が言うと
「冗談ですか?」と受けたという。

番組終了後、大統領サイドの人たちからは、
サラメ女史に対するオランド大統領の態度が柔らか過ぎたのではないか、との声もあったようだが、
サラメ女史から、最近フランス全土で広がっている若者の『ニュイ・ドゥブ運動:夜、広場に集まって、皆の前で自分の意見を述べる。若者が今の政治への不満をぶつける』について問われた際の大統領の答えは、あっぱれだと私は思ったが、どうだろう。

「サラメ女史、あなたに打ち明けましょう。私も二十歳だったことがあるんです。そして、運動に身を置いた事があります。なぜならば、不正があったからです。世の中がそうあるべきようでなかったからです。若者たちが自分の意見を述べたいと思うのは正当なことだと思います。」
"Léa Salamé, je vais vous faire une confidence, j'ai eu vingn ans et je me suis
aussi mis dans le mouvement parce qu'il y avait des injustices, parce que je
pensais que le monde n'allait pas comme il devait aller. Je trouve légitime
que la jeunesse veuille s'exprimer."

この記事の下に次のような匿名コメントがあったが、真偽の程は如何に、、、
「サラメの父親はモロッコの王様と友だちで、オランド大統領とサラメは夕食を一緒に食べる仲。二人のこのやりとりは二人の間の遊戯。・・・」

シラク元大統領の長女ローランスが心不全のため58才で亡くなった。
ローランスは長年、精神的拒食症に苦しんでいた、という。
葬儀にはベルナデット夫人や次女のクロード他、親しい人たちに守られて、シラク元大統領も車椅子に乗って出席した。
毒舌家で夫にきつい言葉を投げかけることもあるらしいベルナデット夫人だが、こういう時には、その力強い存在は、シラク元大統領にとって実にありがたいに違いないと思われた。
# by yamabato_za | 2016-04-22 00:29 | Yahoo!Franceニュース | Trackback | Comments(0)