勘違い その1: 勘違い その2: 音と見た目が何となく似ているので勘違いについては、霧立のぼると霧島昇、水戸光子と三浦光子、普通名詞では、かぼちゃとじゃがいも、という前科あり。 #
by yamabato_za
| 2016-06-15 23:31
| 山鳩の記
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本棚に眠っていた文庫『愛と苦悩の手紙』、亀井勝一郎編の太宰治の手紙集。未読。自分で買ったものではなく、多分、姉が残していったものだと思う。初版昭和37年。これは昭和49年の二十版で、当時260円。
ページが薄茶色になり、古い臭いもするので、面白くなかったら処分するつもりで読み始める。 前半は、お金の工面に関しての、くどい言い訳のような内容ばかり。しかし、甲府居住頃より穏やかになり、三鷹に住むようになってからは、なかなか興味深かった。 昭和20年6月、疎開先の甲府から、三鷹の自分の家に居る弟子の小山清宛のはがき。 昭和21年4月の河盛好蔵宛の手紙では、文化について。 昭和19年、太宰の『佳日』が東宝で映画化されたらしい。『四つの結婚』というタイトルで、入江たか子・山田五十鈴・高峰秀子・山根寿子らが出演。 昭和20年の井伏鱒二宛の手紙には、成瀬巳喜男監督の『妻よ薔薇のように』でヒロイン千葉早智子の父親を演じた丸山定夫の名前が! 昭和21年3月の伊馬春部宛の手紙にも丸山定夫が出てくる。 昭和20年9月の田中英光(弟子の一人)宛の手紙には『パンドラの匣』のことが書かれている。 昭和21年10月の伊馬春部宛の手紙には、 昭和21年7月、葛西久二(弟子の一人)宛の手紙には、さらに知った名前が。 昭和21年の手紙には、『冬の花火』『春の枯葉』という三幕悲劇のことが、繰り返し出てくる。 『お伽草子』を読んだ時にも感じたことだが、太宰治という人は、世の中を一歩引いたところから、囚われることのない目と心で見ることのできる、まともな頭のいい人に思われた。 昭和21年1月、井伏鱒二宛の手紙に、 太宰の書簡集は他に弟子の小山清がまとめたものなどがあるらしい。 メモ1: メモ2: 太宰治と丸山定夫の出会いは、丸山からのアプローチ。ウィスキー持参で丸山がやって来たと『酒の追憶』で太宰が書いているとのこと。(青空文庫で読める)(ネット検索情報) 太宰の弟子・小山清の遺稿集『二人の友』には、太宰治と丸山定夫のことを書いたものが入っている。(ネット検索情報) #
by yamabato_za
| 2016-06-06 22:47
| 図書室
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無印良品にソックスを見に行ったのだが、フロアの片隅に本が並べられていて、手に取ったのが藤森照信『建築探偵の冒険〈東京篇〉 (ちくま文庫)』。(東京編とあるが、東京編しかない模様。) この本で語られている建物や場所は、 3)の東洋キネマは1992年に解体されてもうない。 4)の東京駅は、皆様ご存じ、2012年建築当時の姿に復元された。 8)のデ・ラランデの家は、江戸東京たてもの園に移築され、信濃町にはもうない。 上記9つの話の中で非常に興味深かったのは、デ・ラランデの家と兜町と田園調布のこと。 建築史家の藤森照信は建築探偵団と称して、気になる建物のフィールドワークをする。 このデ・ラランデの家が、三島由紀夫の『鏡子の家』で描写される鏡子の家ではないか、との推理が述べられている。 さらに、ネットで調べてみると、この家はもともとは、気象学者の北尾次郎が自ら設計した平屋の自邸であったが、それをその後3階建てに増築したものであり、その増築の際の設計もデ・ラランデではなく北尾次郎であるとの説も出ていて、はっきりしないらしい。 ちなみに、原爆ドームを設計したのは、デ・ラランデのもとで働いたことのあるチェコ人のヤン・レツル。 (30年たっていることもあり、面白いけれどすべての内容を鵜呑みにはできないかもしれませぬ。) 兜町と田園調布についての章のタイトルは「東京を私造したかった人の伝」。 メモ1: #
by yamabato_za
| 2016-05-16 17:15
| 図書室
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『めし』で原節子&上原謙夫婦の向かいに住む2号さんを演じた音羽久米子の出演作の1本であり、成瀬巳喜男が監督するはずだったとの話もあり、観たいと思っていた堀川弘通監督の『裸の大将』(1958年)を観た。
山下清に小林桂樹、清の母に三益愛子、清が働いた弁当屋の主人に有島一郎、清に仕事を紹介してあげるおばさんに沢村貞子ほか、団令子(超キュートなバスガイド)、柳家金語楼、三木のり平、柳谷寛、中村是好、左卜全など、人気役者が次々に登場。東野英治郎、坂本武、藤木悠、飯田蝶子、賀原夏子、千石規子、コロムビア・トップ、コロムビア・ライトも出ていたらしいが、あまりにも登場時間が短くて印象に残っていない(音羽久米子も)。
最後の部分は風刺的な臭いがして興醒め。クレージーキャッツの登場もゴタゴタし過ぎでもったいない。まあ、全体としては楽しく鑑賞。 山下清はどこに行くにもペンと鉛筆を携帯し、そこかしこでスケッチをしているものと思っていたが、あれれ、、、そんな場面はなく、、、 家にあった『生誕80周年記念山下清展』カタログと図書館で借りた『山下清の放浪日記』(池内紀編・解説)を読むことに。 1922年 東京の台東区に生まれる。翌年、関東大震災で家が焼失。 3才の時、重い消化不良の後遺症で、軽い言語障害・知的障害となる。 10才の時、父、死去。母、再婚。周囲のいじめにあう。 12才の時、母、離婚。母とともに杉並区和田掘の社会福祉施設に入る。また、学校でいじめにあったため、千葉の養護施設「八幡学園」に入園。教育の一つとして貼絵を始める。 17才の時、銀座の画廊に展示されて大きな反響をよぶ。 18才の時、八幡学園から姿を消す。千葉県各地を放浪。 3年後ふらりと帰って来て、貼絵を制作し、放浪中の出来事を書き綴る。しかし、再び出ていく。その繰り返し。 1953年、31才の時、アメリカのグラフ雑誌『ライフ』が貼絵に注目し、放浪中の清を捜し始める。翌年、鹿児島で発見される。 1956年、東京・大丸で「山下清作品展」開催 (←12才の時の貼絵) 日記も貼絵も、八幡学園で毎日の作業として課せられたもので、有名になってからは、仕事として行っていたという。 (有名になる前の放浪中はスケッチなどしなかった、ということだ。) 池内紀氏は山下清のことを「若くもなく幼くもなかった。純でも無垢でもなく、明るくも暗くもなく、少年でも老人でもなく、愚か者でも賢者でもなかった」と書いている。「純でも無垢でもない」の部分はよくわからないが、他の部分についてはそうなんだろうと思う。 小銭や食べ物をもらうために、嘘を自覚的に策略的についている。 それを悪いと思っていない。しかたないことだと思っている。 無理はしない。良く考えて行動する。 放浪中は、もっぱら駅舎で寝ていたが、駅員がいると追い出されるので、駅員がいなくなるまで外で待った。 大きな駅では追い出されやすいため、小さい駅を選んで宿とした。 お金を使わないように駅から駅へと歩くことが多かったが、長く歩くと疲れるのを知っていて、適当な駅までは切符を買って電車に乗ることもあった。 嘘を言ってでも食べ物をもらうけれど、無理強いはしない。この人が駄目なら、もらえる人に会うまで歩き続けるということを厭わなかった。 ズボンやシャツがボロボロになると新しい物を買っている。そのお金は人からもらった小銭を貯めて築く。(塵も積もれば山となる方式) 富士山や日光など行きたいところに行くことを楽しみにしている。 駅の待合室などで休んでいる時、よく退屈する。退屈すると人とおしゃべりをしている。 以下、『山下清の放浪日記』より、人とのおしゃべりの場面のいくつか。そこには、穏やかな生活の知恵、用心の心得が見出される。 (←15才の時の貼絵) 【郡山であった事】 より 「人の心は顔を見れば分るとよくいうので、おとなしい顔をしても聞かん坊な人も居るので、正直な顔をしてもずるい人は沢山居て、不正直な顔をしても正直な人は沢山居る。やさしい顔をしても心が鬼になって居る人も沢山居るので、其のほか女の人は情があるとよく云うので、女の人でも薄情な人も沢山居て、男の人でも情のある人も沢山居るので、情のあるような顔をして薄情の人も居るので、知らない人の顔を見ても心は分らない」 知らない人の顔を見ても心は分らない ― 清が放浪生活の実体験から得た経験則だろう。 この話し相手は若いルンペンで「ボロでもいいからズボンをくれ」と言われる。清は自分が寒い思いをするからあげたくなかったが、あげないと言うと何をされるかわからないので、彼と一緒に降りる予定だった駅では降りず、うまくはぐらかした。→自己防衛の知恵あり。 清の書く文章は上記のようなもので、とても読みにくい。 【汽車道をどして歩くかという事】 より(多少読みやすく変更) 岩沼駅の待合室で休んで居る時、退屈でよその人と話をした。 「乞食をしても、病気にならない様に気をつけていれば大丈夫だろうと思うんだ」と云ったら、よその人が「病気にならない様にいくら気をつけて居ても、病気になる時もある。食い過ぎをしたり少しぐらい悪い物を食べても、お腹をこわすとは限らない。こういう事はいちがいには云えない」と云うので「おれは毎日三里も四里も歩いているから、足が丈夫になるだろう」と云ったら、よその人が「毎日歩いても、足が丈夫になる人とならない人が居る。運動もやり過ぎると身体を壊してしまうので、加減が少しむずかしい。何でも度を過ぎると失敗してしまう」と云われた。 (←17才の時の貼絵) 【伊香保の温泉に入る事】 より(多少読みやすく変更) 「(温泉に入ると)どんな病気でも治りますか?」 よその人「その人の体質によって、温泉に入って病気の治る人と治らない人が居る。」 「この温泉に入ると疲れがなおりますか?」 よその人「疲れがなおる人となおらない人が居る。その人の体質だから。」 「体の弱い人や心臓が弱い人は、温泉に入ると体が強くなったり、心臓も強くなってきますか?」 よその人「心臓の弱い人は、温泉に入るともっと弱くなってしまう。体の弱い人はだんだん丈夫になってくる。でも、急には丈夫にならない。1ヶ月か2ヶ月位入るとなおるかもわからないが、その人の体質だから、1ヶ月入っても半年入っても丈夫になる人とならない人が居る。温泉は薬だと思って、一日に何回も入り過ぎると効き過ぎてしまって体の弱い人はもっと弱くなってしまう。何でも程度があるんだから」 (←母ふじと山下清 画像はすべて『山下清展』カタログより) 『日本ぶらりぶらり (ちくま文庫)』は、有名になってからの放浪の旅を書き綴ったものらしい。 こちらもちょっと気になります。 #
by yamabato_za
| 2016-04-24 19:00
| 図書室
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先週の木曜日、オランド大統領は「国民との対話」と題されたTV番組に出演した。
最近のアンケートで、また、人気が下がっていた大統領。 進行役のニュースキャスター・サラメ女史は厳しい態度で対したという。 例えば、「移民に対する姿勢はドイツのメルケル首相と同じです」 とオランド大統領が言うと 「冗談ですか?」と受けたという。 番組終了後、大統領サイドの人たちからは、 サラメ女史に対するオランド大統領の態度が柔らか過ぎたのではないか、との声もあったようだが、 サラメ女史から、最近フランス全土で広がっている若者の『ニュイ・ドゥブ運動:夜、広場に集まって、皆の前で自分の意見を述べる。若者が今の政治への不満をぶつける』について問われた際の大統領の答えは、あっぱれだと私は思ったが、どうだろう。 「サラメ女史、あなたに打ち明けましょう。私も二十歳だったことがあるんです。そして、運動に身を置いた事があります。なぜならば、不正があったからです。世の中がそうあるべきようでなかったからです。若者たちが自分の意見を述べたいと思うのは正当なことだと思います。」 "Léa Salamé, je vais vous faire une confidence, j'ai eu vingn ans et je me suis aussi mis dans le mouvement parce qu'il y avait des injustices, parce que je pensais que le monde n'allait pas comme il devait aller. Je trouve légitime que la jeunesse veuille s'exprimer." この記事の下に次のような匿名コメントがあったが、真偽の程は如何に、、、 「サラメの父親はモロッコの王様と友だちで、オランド大統領とサラメは夕食を一緒に食べる仲。二人のこのやりとりは二人の間の遊戯。・・・」 シラク元大統領の長女ローランスが心不全のため58才で亡くなった。 ローランスは長年、精神的拒食症に苦しんでいた、という。 葬儀にはベルナデット夫人や次女のクロード他、親しい人たちに守られて、シラク元大統領も車椅子に乗って出席した。 毒舌家で夫にきつい言葉を投げかけることもあるらしいベルナデット夫人だが、こういう時には、その力強い存在は、シラク元大統領にとって実にありがたいに違いないと思われた。 #
by yamabato_za
| 2016-04-22 00:29
| Yahoo!Franceニュース
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