人生フルーツ2

映画『人生フルーツ』の津端修一・英子夫妻の話をまとめた本
ききがたり ときをためる暮し』より大量メモ:



【修一さんのききがたり】
死んだら南十字星に行くと決めている人がたくさんいて、ロマンチックでいいなあと思う。南十字星はギュウギュウだから、自分はその隣にある小さな星にする。
修一さんも英子さんも何十年も健康診断を受けていない。内心はとても弱虫なので、不具合が見つかると精神が不安定になってしまうから。
弱虫は生き延びる資質として一番大事。弱虫の方がシャープにいろんな事を感じ取れる。
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東大のヨット部に入り、1年のうち80日間は海の上だった。
東大建築学科を出て、1951年アントニン・レーモンド建築事務所に入る。
現在の家は、日本住宅公団の退職金800万円で、アントニン・レーモンドの自宅兼アトリエ(玄関がない)をモデルに設計。
屋根はトタン。5年に1回塗り替える。
トタン屋根の面白いところは、雨音やドングリが落ちる音が楽しめるところ。来客中にドングリが落ちるとその反応が面白い。
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庭の木は小さな苗から育てたもので愛着がある。木々1本1本に妖精が宿っていると思っているので、時々抱きついて元気をもらっている。
修一さんは「木」が大好き:自分のクルーザーもヒノキとサクラで造った。そういえば『人生フルーツ』の中で、修一さんは木のスプーンしか使わないと英子さんが言っていた。)
竹酢液(ちくさくえき)を希釈してかけて果樹の消毒。
畑に虫が多いから、それを目当てに野鳥もやってくる。
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修一さんは、洗濯、網戸洗い、障子戸洗い、落ち葉集め、畑作業の手伝いなどをする。週末にはクロスワードパズル。映画で「お海苔がない」と言うだけで動かなかった修一さんだが、食器の洗いは、英子さんが「(私がやるから)いいわよ」と言うのに、していた。)
膝が痛みだしたので、英子さんに勧めに従って84歳からグルコサミンを飲み始めた。
クルーザーはその後、乗らなくなったので、英子さんの提案で寄贈。(英子さんを)気前のいい人だなあ、と思った。
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修一さんのお父さんは「イソラ・ベラ(イタリア語で美しい島という意味)」という出版社を一人でやり、当時海運国だった日本の船の年間輸出・輸入量をのせた『海運年鑑』を出版、船会社に買ってもらっていた。
修一さんも丸の内あたりにその本を持って集金に出かけたり、印刷を手伝ったりした。
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夫婦間のコミュニケーションは、口で言うと角が立つ時があるので、パネルや旗を使っている。やってほしいこと注意することなど。
記録を共有して財産として持つ。給料明細、買物の記録、プレゼントリスト、食事の記録など。
困難は人を強くするかもしれないが、心の拠り所となるのは楽しい思い出。楽しい思い出を記録し、財産として持つ。

【英子さんのききがたり】
半田(知多半島)の何代も続く造り酒屋の娘
幼い頃から自分のうちの菜園に親しんでいた。昔から土いじりが好き。
胃下垂など病気がちで疲れやすかったが、畑仕事などで身体を動かすうちに丈夫に。
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子育てのアドバイスを求められることがあるが、もっと動物的感覚を研ぎ澄ます方がいい。
一人一人みんな違うのだから、よく見てあげて気づいてあげる。そして、マニュアルや人の話に頼らず、自分の頭で考えること。
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無農薬で育てるのは大変(ナメクジやアブラムシの大量発生など)なので、自然の力を借りる:
梅・あんず・さくらんぼの木の下にはニラを、柿の木の下にはミョウガを植えて、時々刈っては根元に敷くと害虫が寄って来ない。
畑の隅にはクスノキを植えて畑の虫除け。
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毎月2回野菜や保存食を娘二人に送って、忙しい子供たちをサポート。世話になった人(親)は先にいなくなってしまうから、お返しは子供にやってあげればいい。
機織りは1日2時間だけ。できたマフラーは手と足の運動のありがたい副産物(人にプレゼント)。
好きな農作業も1日2時間だけ。無理をして後で身体が痛くなったりすると困るので。
50歳代からカルシウム・ビタミンCをとっている。
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終戦間近に自分の気持ちに従って工場に行かず家に戻って命びろいした経験から、自分の感性(勘)を信じて生きてきた。
生活が厳しくても食費は減らさず、食べるものには気をつけてきた。
年収以上のクルーザーを買ったりと修一さんのヨット好きは家計の負担だったが、自分の保険を取り崩したり、義母から借りたり、質屋に通ったりとやりくりし、なければないなりにと慣れてしまった。
「旦那さまを第一に考えれば、まわりまわってよくなる」と実家で教えられてきたので、その通りにしてきた。
14の時に母が病死、その4年後に父も病死するが、その間、父から掃除の仕方を教わったり、父の思い出話を聞いたり、貴重な時間を過ごした。

巻末に「英子さんの料理レシピ集」あり。
(↓)文庫版もあります。


# by yamabato_za | 2019-02-19 19:08 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

人生フルーツ

吉祥寺のパルコB2階の本屋フロアがなくなり、映画館がオープンした。
あまり関心を寄せていなかったのだが、何の予定もないある日、ふとエレベーターで地下に降りてみた。
小ホールが5つ。平日の昼間のせいなのか、閑散としている。
映画のチラシが沢山並んでいたので、何枚か持ち帰った。
家で仔細にチェックしていると、見逃し映画特集の中に津端修一という名前をみつけ、びっくりした。
津端修一は『奇跡の団地 阿佐ヶ谷住宅』という本に出てきた人で、昭和33年に南阿佐ヶ谷に建設された住宅公団の分譲集合住宅「阿佐ヶ谷住宅」(現在は再開発されて消滅)の計画に当った人である。
阿佐ヶ谷住宅計画当時、表参道に住んでいて、窓から外を眺めると、同潤会アパートの棟と棟の間に一高の時計塔がポツンと見え、そのバックに富士山が薄く見えたという。それがとてもうれしくて毎日の楽しみだったので、そういうのを団地の人々にも味わってもらいたいと思い、設計上のキーワードは「ロングビスタ(遠くの眺望)」にしたと書いてあった。
そのロングビスタが強く印象に残った。

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津端修一・英子夫妻についての『人生フルーツ』というドキュメンタリー映画があるのだった。
パルコでの上映は終了していたが、東中野の小ホールで上映していたので早速足を運ぶ。
津端修一・英子夫妻は、自宅の庭に雑木林を作り、畑を作り、作れるものは何でも自分たちで作るというスローライフを送っている。ロングビスタについては全くと言っていい程触れられていなかったので少しがっかり。

修一氏は、伊勢湾台風後の土地開発・高蔵寺ニュータウンの計画に当り、山の尾根に沿って住宅棟を配置することを考えたが通らず、山は切り崩されて平らな土地にされてしまった。経済が優先され、彼の提唱するロングビスタや里山のある住宅はなかなか難しかったようである。
そして、自宅で庭に里山のある生活を実践することになる。
自由人で、組織の中で仕事をするのは性に合わないタイプらしい修一氏は、公団を辞めた後は、大学で教え、その後は自由時間評論家。

映画の中では、働き者で夫につくす奥さんの英子さんの方がよりチャーミングに見えた。
修一氏も畑仕事や工作、ベーコン作りなどをやり、動き回っていたけれど、朝食の時に海苔がなくて、「お海苔がない」と言うだけで動こうとしなかったのは、ちょっと見にはマイナスポイント。英子さんがすぐに動いて用意してあげていた。
とにかく食事に関しては英子さんに頼りっきりなので、万が一英子さんが先になくなってしまったらどうするんだろ?とこちらまで心配になった。
そんな修一さん、映画の中で静かに息を引き取られました。
畑仕事後の午睡中にそのまま逝かれたらしい。

この映画は2017年の作品で、その年のキネマ旬報文化映画第1位に輝いている。夫妻についての書籍も数冊出ている。
その中の1冊を読んでみた。
やはり、英子さんは素晴らしい!そして、修一さんも悪くない。
ききがたり『ときをためる暮し』。40代の女性ライターが1年間二人のもとに通い、話を聞いてまとめた一冊。
この本については稿を改めてメモします。

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左のドキュメンタリー映画も見逃し映画特集にあり、観る。
ジェームズ・ブラウンに対して今まで持っていた印象が塗り替えられる。



# by yamabato_za | 2019-02-02 22:56 | シネマ | Trackback | Comments(0)

新幹線をつくった男 島秀雄物語

父の本棚にあった本。
高橋団吉著、雑誌『ラピタ』に1998年4月~2000年2月まで連載されたらしい。
2000年5月1日発行。興味深い話が満載。
飛行機は怖くて乗れないが、新幹線ならば安心している自分だが、200キロものスペードを出すのであるから何かのトラブルで脱線したら大惨事になることを、この本を読んで初めて認識。
本の帯には「すべてのエンジニアに、すべての鉄道ファンに、そして、新幹線に乗るすべての人に知って欲しい夢の超特急誕生秘話」とあるが、まさにその通り。

以下、結構な量の備忘メモ。

*十河信二総裁&島秀雄技師長 就任経緯
東京オリンピックの年、昭和39年10月1日に開通した東海道新幹線は、第4代国鉄総裁・十河信二と技師長・島秀雄なしには実現できなかっただろうが、二人とも当初はそのポストにつくことを断っている。
昭和30年5月、168人の犠牲者を出す事故が発生。第3代総裁が引責辞任する。後任人事は難航し、窮した当時の内閣は、鉄道OBの十河に白羽の矢を立てる。
この時、十河信二は71歳で病後。血圧が乱高下していた。
固辞した十河を政治家・三木武吉が
「いわば国鉄は君の祖国である。今や祖国の悲運、城を護る城主なきに苦しんでいる。然るに君は、老齢だとか病後だとか、辞を構えて逃避せんとするのか。赤紙を突きつけられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か」
と言って説得。十河は悲壮な決意を固める。
島秀雄を技師長にスカウトしたのは十河だった。
島秀雄も国鉄OBで多くの犠牲者を出した桜木町事故(昭和26年)の責任を取る形で辞職し、住友金属に移っていた。
秀雄には一度去った人間が再び戻ることに強い抵抗があったが、十河の再三の説得を受け、十河の鉄道への信念と情熱に心動かされ受諾する。

*十河総裁なくして新幹線なしも出発式に姿なし
十河は総裁就任当初から、広軌高速長距離電車(新幹線)の実現が心の中にありながら、国鉄内の反対派のことを考えて口に出さずにいた。
新幹線が国鉄のドル箱となり、安全神話が語られるのは、開通後のことであり、それ以前には、新幹線の採算性と安全性に対する疑義は根強かった。
秀雄ら技術陣が出した新幹線の建設予算は3000億円だったが、それでは国会を通らないから半分にしろと十河は言って予算1900億とした。
その予算不足を補うため十河は、我田引「鉄」の政治家から持ち込まれる話を聞かずに、可能な限り新幹線の方に回した。
利権がらみの話の一切通じぬ頑固親父・十河は、国鉄内の官僚グループとの溝が深くなっていく。
十河が総裁二期を終えようとするころ、再々任の声もある中、新幹線建設予算不足の責任をとって、十河は国鉄を去ることになる。
島秀雄も任期途中であったが、十河が去るならと辞職した。新幹線開通前年のこと。
晴れの新幹線出発式に二人の姿はなかったことは、国鉄の汚点になっているらしい。
「このオヤジなくして東海道新幹線なし」といわれた熱血総裁・十河信二のレリーフが新幹線19番ホームの1号車側にある。
十河追い落としをはかったとも言われる第6代総裁磯崎叡(さとし)が建てたもの。

*標準軌(広軌)と狭軌
新幹線の線路は、多くの諸外国の鉄道と同じ標準軌(1436ミリ、かつて広軌とも呼ばれていた)だが、その他のJR線はほとんどが狭軌(1067ミリ)。

*島家三代で広軌新幹線
島秀雄の父・島安二郎も明治から大正にかけて鉄道を支えた指導的技術者であった。
そして、その後半生をかけて広軌改築のために奮闘努力するも実現せず。
狭軌据え置き論vs広軌改築論は、政争の具として弄ばれ、何度も議会通過寸前で葬り去られてしまう。
安二郎の長男・秀雄は、大正14年鉄道省入省。蒸気機関車設計者として頭角を現す。
昭和14年、東京-下関間に広軌新幹線を通すという「弾丸列車計画」が急浮上し、満鉄にいた安二郎が調査会特別委員長として招集され、秀雄は具体的な列車設計者として指名される。

しかし、この計画も戦況悪化により泡沫に帰す。
秀雄によって東海道新幹線が実現されたことによって、父・安二郎の悲願であった広軌鉄道建設は叶ったわけだが、新幹線の設計を担当したのは秀雄の次男・隆だった。

*機関車列車より電車列車
昭和20年12月、敗戦からわずか4か月後のある日、島秀雄はこう言っている。
「私は将来日本に電車形式の高速長距離列車を走らせたいと思っています。」
当時、振動と騒音がひどい電車列車は「非常識」とされ、20~30分の通勤用に限られ「ゲタ電」と呼ばれていた。
しかし、(各車両が動力を持って走る)電車列車には良い点が沢山ある。
・加減速性能に優れていて緻密なダイヤを組める。
・牽引機関車を切り離す必要がないので折り返し運転が平易である。
・重い牽引機が不要なので鉄道の構造がより簡素で済みコスト安である。
・電力の回生も可能で省エネにも資す。
また、世界的には、これからの長距離輸送は飛行機と自動車が担うという考えが一般的だった。
しかし、その後の新幹線の成功によって、海外でも高速長距離列車が走るようになった。
大きく言えば、新幹線は鉄道の衰退を防いだと言えるらしい。

*新幹線の安全神話
第17話=「遺書」で明らかにされる昭和41年4月25日に発生した新幹線トラブル-異常振動と台車からの火花。
原因は不良部品による車軸折損だった。
ただちに対策がたてられ、製造工場では新幹線用車軸の生産ラインを他のものと峻別し、徹底的な品質管理を実行。
国鉄では超音波などの新技術を駆使した徹底的な品質管理マニュアルを作り実行。
新幹線初期計画段階に安全運転委員会のメンバーとして活動したことがある唐津一教授の言葉(本文より引用):
「・・・思ってもみない原因が重なりあって、トラブルというものは起こる。
むしろトラブルの後に徹底的な原因究明と徹底的な対策をどこまで実行できるか。
問題は、そこに尽きるんです。
東海道新幹線は、いまでは一日230本の列車が東京-大阪間を走っています。
しかも時速240キロ。
にもかかわらず開業以来丸々35年も列車事故を起こさない、世界でも類まれな安全性を誇る鉄道なんです。
しかし、それは失敗の積み重ねの上に確立された、けっきょくのところ現場の努力の賜物なのだということを知るべきでしょうね」
以下、本文より引用:
「唐津によれば、欧米には、重大事故に関する免責制度というものがある。
飛行機事故や原子力関係の事故、大火災などの大事故が発生すると、検察当局が「免責」を宣言する。
つまり、責任者を告発するより、関係者に真実を証言させることによって、出来事の真相を解明し、それによって次なる悲劇を未然に防ごうという考え方である。」


# by yamabato_za | 2019-01-09 17:00 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

『ぼくの美術ノート』原田治

原田治は「OSAMU GOODS」で人気を集めたイラストレーター。
ぼくの美術ノート』は雑誌に連載したエッセーをまとめたもの。



備忘録として、いくつかのトリビア事項などをメモ:

1、鉄斎と饅頭
とらやの虎屋饅頭(酒饅頭)の掛け紙は、富岡鉄斎が描いたもの(饅頭を持った羅漢が虎に乗る図)だった。
(現在はこの掛け紙は使われていない??)
かつて鉄斎が虎屋主人に贈った原画をもとに昭和に入って掛け紙としたもの。
京都の法衣商十一屋の次男に生まれた鉄斎は、幼年より国学、漢学、陽明学を学び、明治維新後は神官となり、荒廃した神社の復興に努める。
四十代後半で京都に隠棲。南画(文人画)の大家として知られるようになる。
京都鉄斎邸近くに虎屋一条店がある。

2、寿ぎのデザイン
「銀座平つか」は、江戸指物(姿見、鏡台、抽斗、文机など)の店。
“主に畳の部屋で着物を着て生活する女性の、昔なら当たり前だった生活様式のための、家具小物専門店(本文より引用)”。
和紙の木版刷りの便箋や封筒、絵葉書などは、江戸指物に付随する商品。
(かつて、私はここで絵葉書を買ったことがあったが、指物店であるとは露知らず。少し前に「銀座平つか」の店舗は閉店。現在は空也「空いろ」の銀座店になっている。)

3、鉄斎と宝船
富岡鉄斎は、明治21年から同26年まで京都の車折(くるまざき)神社の宮司を務め、自ら描いた書画を売って資金とし復興させた。
その鉄斎描く宝船の絵馬が車折神社で売られている。
宝船には回文の歌「なかきよの とをのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」が添えられる。
(車折神社の公式ホームページには2018年12月現在、鉄斎の宝船絵馬の掲載なし。もう売られていないのかもしれない。)

4、宮田重雄の挿絵作法
1954年4月から獅子文六の小説『青春怪談』が読売新聞に連載され、198回で完結した。
その挿絵を担当したのが宮田重雄。
1955年に監督・市川崑で同小説は映画化されたが、その際、この挿絵のイメージを崩さないようにカット割や衣装が考えられたらしい。
(宮田重雄は成瀬巳喜男監督『石中先生行状記』(1950年)に石坂洋次郎役で出演している。原作者の石坂が出演を固辞したので、挿絵を担当した宮田にお鉢が回ってきたそう。その演技が今いちで、好印象を持っていなかったが、本業の挿絵は巧い。)

5、ハリウッド映画の衣装博士
1897年カリフォルニア生まれのユダヤ人、イーディス・ヘッド女史は、無声映画時代からパラマウント映画専属の衣装デザイナー。
担当した映画数は83歳で亡くなるまでに800本近くに達する。
オードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』『愛しのサブリナ』
ヒッチコックの『裏窓』『成金泥棒』『めまい』『鳥』など
アカデミー衣装デザイン賞8回受賞。

6、いじわるばあ讃
大人向けに描かれた『いじわるばあさん』は昭和41年に登場。
“「いじわるばあさん」こと伊知割石さんは、・・・長男夫婦と孫三人で仲悪く暮らしています。たまにほかの二人の息子宅を盥回しにされますが、どこへゆこうが誰彼かまわず過激にアタックする嫌われ者です。(本文より引用)”
長谷川町子いわく“サザエさんとて、コドモにも無害のホームマンガ。・・・ヒューマニズムにあきていたところに、サンデー毎日しんねん号8ページをたのまれ、「いじわるばあさん」をかきました。”

7、パリのアメリカ人
1928年ニューヨーク生まれのユダヤ人の写真家ウィリアム・クライン。
戦後、パリで暮らすようになる。現在もパリのリュクサンブール公園近くに住んでいるらしい。
『地下鉄のザジ』(1960年)は監督ルイ・マル、美術監修ウィリアム・クラインとなっているが、実は二人の共同監督。

8、出雲の国のスリップウェア
布志名焼(ふじなやき)は、江戸時代の中頃、布志名の地に移り住んだ舩木与次兵衛村政が始祖。
現在の舩木窯はそのうちの一家が分家して開窯したもの。
四代目・道忠(1900-1963)の時に、民芸運動の柳宗悦、バーナード・リーチらとの出会いがあり、舩木窯で英国で廃れていたスリップウェアを再現。
英国人のバーナード・リーチも、民芸の他の同人同様、ある本の中で見い出すまで、スリップウェアのことを知らなかった。
スリップウェアは、百年を経て、遥か日本の地、島根の舩木窯で復活したと言える。
(少し前に日本民芸館を訪れた際に目を引いた展示品の作者、舩木研兒(ふなきけんじ)はこの舩木窯の五代目だった。京都女子大学生活デザイン研究所のレポートによると、五代目・研兒は、濱田庄司に師事、1950年に日本民藝館賞を受賞。1967年に渡英、バーナード・リーチやデビット・リーチの窯にて研鑽し、本格的にスリップウェアの技法を取り入れたそうである。)


# by yamabato_za | 2018-12-03 17:37 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

小津安二郎生誕115年記念アドベントカレンダー

少し前に無印良品のお店でお菓子の入ったアドベントカレンダーを見つけました。
数字だけのシンプルなもので「自分で作れる!」と思いました。
どう作ろうかと考えを巡らせているうちに、今年は小刻み過ぎるけれども小津安二郎生誕115年であるので、それを記念したアドベントカレンダーを作ることを思い立ちました。
小津映画に出演しているお馴染の人々が一人ずつ、クリスマスに向かって現れるというものです。
実際に出来上がったものが、下の写真です。
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それなりの時間をかけて作ったものなので「成瀬巳喜男のこの1本!」でもアドベントカレンダーを展開いたします。(12月1日~12月25日予定)
また、記念の小冊子も手作りし販売しています。


# by yamabato_za | 2018-11-30 12:19 | インフォメーション | Trackback | Comments(0)