観察映画

想田和弘監督の観察映画第7弾『港町』を観ました。
(注:以下、ネタバレ多少なりともあります。)
観察映画というのは、ただひたすら対象を観察するように撮ってゆく予定調和なしのドキュメンタリー映画のことで、想田和弘氏独自のものだと思われます。
これまでに、選挙や演劇などを観察して撮っているようです。

『港町』は岡山県牛窓の海辺の町が舞台になっています。
牛窓は、その海の景色がエーゲ海に似ていると言われていたり、若いクリエーターが移り住んでいたり、少し前から気にかかっていたところなので、想田監督と観察映画のことは全く知りませんでしたが、映画館に足を運びました。
『港町』にはエーゲ海も若いクリエーターもなく、高齢化し過疎化する田舎町の現実がありました。
それでも、途中までは、まだよかったのです。
八十過ぎてもひとりで漁に出るワイちゃんの漁の様子。
ワイちゃんを含む何人かの漁師が獲ってきた魚をせりで買って町の人たちに売る、後期高齢者だという魚屋の女将の働きぶり。
野良猫に餌をやる移住してきた母息子(あるいは夫婦?)など。
のどかで、一見したところでは希薄ではない人間関係が好ましくも思われたのです。
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しかし、海辺によく出ているちょこまかしておしゃべりなおばあさんが、はじめは、「ワイちゃんは耳が遠いから聞こえんよ」と言っていたのが、そのうち、いい人でないから「わたしはあの人(ワイちゃんのこと)嫌い」と言ったり、一緒に海辺に出ていた足の悪い無口なおばあさんの家のこと(娘と息子と仲が悪い)をしゃべったりするのです。
そして、カメラがずっと自分に向けられ続けるので、それを嫌がって、少し山を登ったところに新しく(?)できた病院にカメラを回す監督を案内するのです。

せかせかと軽い駆け足でどんどん坂を上って病院の前に着きます。
その病院は、最初は小学校で、そのおばあさんも通ったのでしたが、何かにかわって、さらに病院になったことを説明します。
そして、向う側の下の方に自分の実家があるんだ、と言ったことがきっかけになったのでしょうか、おばあさんは三年前にあった悲しい出来事を怒涛のごとく話すのです。

その話の最中、海辺から後を追ってきた足の悪いおばあさんと彼女に付き添ってきた監督の奥さんがたどり着きます。
海辺で、ちょこまかしたおばあさんが、足の悪いおばあさんの家のことを、カメラを回す監督に噂話のように話すのを、足の悪いおばあさんは少し離れた所に佇んで、睨むように見ていました。
だから、おしゃべりなおばあさんのことをよく思ってないのかと感じられたのですが、そうではなかった。
ふたりは悲しみを抱えた者同士で、お互いに支え合っていたのではないでしょうか。

その翌日だったのか、監督夫妻が町を離れる時、足の悪いおばあさんの挨拶が上品で優しいのに驚き安堵しました。

ちょこまかしたおばあさんが、どうしてワイちゃんのことを嫌っているのか、については明らかにされません。
その理由にも、もしかしたら、驚きの出来事があるのかもしれません。
一見しただけでは、ちょっと話しただけでは、人間はわからないものです。
ちょこまかしておしゃべりなおばあさんの悲しい現実に圧倒されました。
『港町』は東京ではイメージフォーラムで上映中です。


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# by yamabato_za | 2018-04-20 23:28 | シネマ | Trackback | Comments(0)

西郷山の国鉄宿舎

『暮しの手帖』(2018年2-3月号)に「代官山散歩」という記事があり、西郷山公園と菅刈公園が出ていた。

・・・西郷山公園に行きたい時は、むしろ菅刈公園を抜けていくのが楽しい。もともと菅刈公園と西郷山公園はともに西郷従道の邸宅だった土地。ふたつの公園はつながっていないけれど、菅刈公園には復元された日本庭園があるし、西郷山公園の展望台からは冬晴れの日に富士山が望めるらしい。・・・

これを一読した私は動揺した。
現在菅刈公園となっている敷地は、「西郷どん」の弟である西郷従道の邸宅があった場所に違いないが、戦後から平成にかけて旧国鉄の所有地であり、国鉄宿舎が建っていた一時代があった。
それが、その時代が無かったかのごとく扱われているように感じられ、悲しかったのである。
(少し時間を置いて読み直してみれば、この記事には必要のない情報であるので触れてられていないだけだと思われたが。)
その国鉄宿舎で、私は小学1年からの5年間を過した。それは我が人生の中で最も幸せな日々と言ってもよかったので、なおさらショックだった。

父のアルバムを見ると、
昭和38(1963)年1月18日に、中目黒のアパートから西郷山宿舎に引っ越したとある。
本社の課長待遇に栄進したのは、遡ること3年半前だったが、宿舎事情が悪く、地方から転勤して来る課長が優先され、東京在住者への宿舎格上げ割り当てはなかなか巡って来なかったとある。

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そして、
「目黒区青葉台の課長宿舎は二軒長屋の造りであるが、二階があり、今迄の6畳2間に4畳半と台所だけのアパートに比較すれば、広くて庭があり、まるで天国の様であった。
通称西郷山と呼ばれている山の上の方で場所も良かった。」
と書かれている。
(←二軒長屋の玄関側)


確かに西郷山の上の方で、家に帰るには、必ず坂を登らなければならなかった。
また、旧山の手通りに出るには、さらに急な坂をもう少し登らなければならなかったけれど、それは全く苦ではなかった。
私は坂のあるこの場所が好きだった。

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(←二軒長屋の南側には庭があった。)
1964年の東京オリンピックの時には、この宿舎の庭から飛行機が描く五輪マークを見た。
冬に雪が積もった時には、今も残る宿舎内の坂で、もらいもののお菓子の四角缶の蓋でそり遊びをした。
ご近所には、金田正一が住んでいたし、一時期タイガースのメンバーの誰それが住んでいたんではなかったか。

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(↑菅刈公園和館展示室資料「目黒区立菅刈公園復元庭園ガイド」掲載の地図使用)

さて、ウィキペディアの菅刈公園のページには、国鉄宿舎時代についての記載がほんのわずかなので、より詳しい年表を作ってみた。
(ウィキペディア、菅刈公園資料館の展示資料、目黒郷土研究会会報など参照)

文化4年(1807年)豊後の岡藩(現大分県竹田市)中川家の目黒抱屋敷は、4月~7月にかけて家中の鉄砲稽古場として利用されていた。
明治7年(1874年)西郷従道が旧中川家抱屋敷を含む約2万坪の土地を高畠氏より購入
明治13年(1880年)フランス人建築家ジュール・レスカスによって日本初の木造二階建耐震仕様の洋館が建造される
明治22年(1889年)書院造の和館2棟が建造される
明治34年(1901年)西郷家の本邸となる(それまでは別邸だった)
明治35年(1902年)西郷従道没
昭和16年(1941年)西郷家では、戦時中、出費がかさみ借財が増えたため、山の部分の土地を75万円で箱根土地へ売却
西郷従徳は住まいを渋谷に移す。
箱根土地は西郷山文化村分譲地として宅地化する。その際、余った土の処分に困り、園内の名だたる池が埋められる。
(※この西郷村文化村が現住所のどの辺にあって、その後どうなったかを知りたかったのだが、つきとめられず。
知っている方がいらっしゃいましたら、お教えいただけると有難く存じもうす。)

庭園もあちらこちら輜重兵学校の軍馬の防空壕を作ったため、名木珍草はすっかり掘りかえされる。
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(←そり遊びをした坂の現在)
昭和18年(1943年)
和館・洋館を含めた土地を150万円で国鉄に売却
建築物は昭和20年まで日本通運や国鉄職員の錬成道場などとして使用される。
(※菅刈公園資料館の展示資料には、国鉄売却後、西洋館は敷地の東に移築されたとあるが、これが本当ならば、どこに移築されたのだろうか。)
園内で国鉄職員宿舎の建設開始

昭和20年(1945年)空襲により和館が焼失
焼け残った和風建築物は戦後西郷山会議所に利用される。洋館はプロ野球の国鉄スワローズ(1950年結成、参考1)の合宿所、鉄道弘済会の家族寮として使われる。

昭和37年(1962年)洋館、明治村へ譲与される
昭和39年(1964年)洋館、移築完了(参考2
昭和56年(1981年)目黒区が約4千坪を購入し、西郷山公園が開園

(※西郷山公園となった部分は、国鉄が所有していたかもしれないが、宿舎は建っていなかったような気がする。)
昭和62年(1987年)4月1日国鉄の分割・民営化
日本国有鉄道清算事業団が国鉄長期債務処理のため土地・JR株式などの資産売却にあたる。


平成9年(1997年)目黒区が青葉台の旧国鉄宿舎の土地を取得
平成13年(2001年)青葉台の旧国鉄宿舎跡地に菅刈公園開園

参考1:(マイナビニュース 鉄道と乗りもの 連載:鉄道トリビア第253回プロ野球「国鉄スワローズ」オーナーは国鉄ではなかった-杉山淳一 参照)
現在の東京ヤクルトスワローズの前身である国鉄スワローズは1950年に結成された。
その前年、日本国有鉄道は、国営の鉄道事業を独立採算制とするために発足。
発足後すぐに約10万人のリストラを実施したため、労使関係は最悪となった。
そんな中、下山国鉄総裁が失踪、常磐線で轢死体となって発見された「下山事件」、無人列車が暴走した「三鷹事件」、東北本線でレールが取り外され列車が脱線した「松川事件」などが起きる。
こうした状況を憂慮した当時の加賀山国鉄総裁は、野球ファンだったこともあり、国鉄職員の団結を目的にプロ野球チーム結成を考える。
しかし、国鉄は日本国有鉄道法によって鉄道以外の事業が制限されていた。
そこで、財団法人交通協力会、鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社など、国鉄と関係の深い会社が協同して、株式会社国鉄球団を設立。国鉄スワローズの運営にあたることになる。
国鉄スワローズでは、後に不倒の通算400勝を達成する金田正一氏が大活躍する。
ちなみ国鉄スワローズのスワローズ=つばめは、1950(昭和25)年に特急「つばめ」が誕生して以来、国鉄のシンボルとして使われていたそうである。
国鉄がJRに変わっても、列車の「つばめ」は九州の特急列車や新幹線に継承され、「つばめマーク」も採用されていると言う。

参考2:
菅刈公園資料館の展示資料には、愛知県犬山市の明治村は、この西郷従道の洋館移築が契機となり開園されたと言われていると書いてある。
この洋館移築と我が一家の西郷山宿舎への引っ越しとは同時期なのだが、当時そういったことに全く関心がなく、西郷さんの洋館がそこにあったことなど露知らなかった。



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# by yamabato_za | 2018-04-05 00:26 | 山鳩の記 | Trackback | Comments(0)

桜、お花見、井の頭公園

お花見の季節到来。
井の頭公園に一応行ってみました。
賑わっていました。池の水鳥は少なめでした。

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以前、本棚の中に眠っていた文庫本、川端康成の『虹いくたび』(1950年)を読んだ際に、気になってメモした部分がありました。
『生の橋』という章で、登場人物の男女が桂離宮を訪れた時に交わされた会話です。

「京都についた日に、父は大徳寺へ行って、お坊さんと大徳寺に桜のない話をしたんですって…。
その時、父は忘れていたんですけれど、後で本朝画史の明兆の話を思い出したって言ってましたわ」
「本朝画史は僕も読んだが、忘れちゃったな」
「義持将軍(足利第四代将軍)は、明兆の絵が好きで、ある時、お前の望みがあるならかなえてやるから、言ってごらんと聞いたんですの。
明兆はお金も位もほしくないけれど、一つお願いがあります。
このごろ、東福寺のお坊さんたちは、桜を植えるのが好きですが、それでは後世、精舎が遊宴の場所になってしまうおそれがあります。
ご命令をいただいて、桜を切らせてください。
よろしいというので、お寺の桜の木をみんな切らせたんですって」


大徳寺と東福寺には現在も桜の木はないのでしょうか。

ちなみに、ウィキペディアなどで見てみますと、大徳寺と東福寺はどちらも臨済宗のお寺で、
前者はJR京都駅の北側に位置し、後者は南側に位置しています。
会話に出てくる(吉山)明兆は東福寺が輩出した名僧のひとり。画僧として活躍したそうです。

大徳寺は、千利休が豊臣秀吉から切腹を言い渡される原因の一つになったと言われる山門のあるお寺でした。
大徳寺からも名僧が多く輩出していて、そのひとりに何と沢庵(宗彭)がいます。
沢庵は幕府との間に紫衣事件なるものを起こし、流罪となりますが、三代将軍家光が沢庵に帰依し、後には江戸に呼ばれることになったとか。
沢庵漬の生みの親という説でよく耳にする名前ですが、立派な人でもあったのです。

先日、ふと立ち寄った本屋さんで安西水丸さんの『a day in the life』を買いました。

こんなものが出ているとは知りませんでした。
水丸さんが『チルチンびと』に2000年から2014年まで連載していたエッセイを集めたものです。
もちろん水丸さんのカラーイラスト入りです。
その中に書かれていて驚いたのですが、水丸さんは23歳で結婚するのですが、その時に雑木林の近くに住みたいと思って、井の頭5丁目に土地付きの一戸建てを買ったそうです。
そこに7年ほど住み、その後、都心のマンション暮らしとなっても、その家は手放さず、義理のお母さんが住んでいたとか。
井の頭公園つながりで付け加えました。


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# by yamabato_za | 2018-03-27 23:42 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

谷川俊太郎の日記

「無印良品」フロア片隅の本コーナーに谷川俊太郎の『ひとり暮らし』という文庫本を見つけました。
詩集ではなく、エッセーと日記を集めたものでした。
2001年に書かれた「あとがき」によると、谷川俊太郎は当時文字通りひとり暮らし(隣に息子さん家族が住んでいるものの)で、少し前から日記をつけ始めていたそうです。



タイトルと本のカバーと文庫本のためのあとがきに惹かれて読んでみることにしました。
予想以上になかなか硬い内容でした。
日記の中のダライ・ラマの姿が印象に残りました。
以下、抜粋引用メモ:
(谷川俊太郎はダライラマの講演会に行く。赤い衣を着たダライ・ラマ法王14世が演壇に現れる。舞台袖に護衛の人が数人控えている。)

・・・雰囲気はものものしいのだが、ダライ・ラマはそういうことには全く頓着しない様子でくつろいでいるので、こっちも気楽に持参のオペラグラスで法王の姿を見ていられる。
・・・・・(法王は)話しながらときどき頭や肩やのどを掻く、暑くなったのか肌ぬぎになったら、腕に虫さされとおぼしいものが点々とある。
同時通訳が日本語に訳している間に、サイドテーブルに置かれたミネラルのラベルを読んだり、衣についているゴミをつまんだり、飴を口にほうりこんでにこっと笑ったりする。
それがすべてこせこせしていないし、ちっともわざとらしくない。
こういうのをよく「天衣無縫」などという言葉で形容するが、そういう言葉さえ邪魔な感じがする。
私は法王の軽やかな身のこなしと、いたずらっ子のような表情を見ているのが楽しくて、それだけで満足してしまう。・・・・・
この眼で見ることで言葉を越えてじかに伝わってくる人となりというものがある。
・・・・・分かりやすい言葉で語る法王の話がつまらないという訳ではない。
例えば新車を買うと人は嬉しい、だがそれが古くなってくるとまた新しい車が欲しくなって金の工面に苦しむ。
幸せがいつの間にか不幸せに変わってしまう、幸せもまた不幸せの原因になるということを、そんなふうに平易に語ってもらうとなるほどなあと思う。・・・

・・・(『ダライ・ラマ こころの育て方』という本の中で)
法王が「私は、人生の真の目的は幸福を求めることだと信じています」と言ったのに対して、対話者が「あなたご自身は幸福ですか?」と訊ねる。
すると法王は「ええ、間違いなく」と答えるのだ。
対話者はつけ加えずにいられない。
「法王の声には疑いをはさむ余地のない穏やかな誠実さがあった。その誠実さは法王の表情やまなざしにも表れていた」。
法王は言葉で答えるよりももっと深く、自身の存在そのもので答えているのだ。
その存在はからだの動きや顔の表情や声音によって他に伝わる。


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# by yamabato_za | 2018-03-13 23:56 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

「最近の映画館」について

ここ何年も、もっぱら、昔の邦画を上映する映画館にしか足を運んでいませんでした。
しかし、先日、普通の映画館に行って心が寒くなりました。
すべて指定席で、チケットを買う時に席を決められてしまうのです。そして、一旦席を決めると変更はできませんので、と念を押されます。
その時は結局全然余裕で、空席が目立っていましたので、指定にする意味はないように思えました。
けれども、回によっては満席、満席以上、あるいは満席に近くなって、指定にしないといけない時があるのかもしれません。その時のルールを空いている時にも統一して堅持しているのでしょう。
しかし、上から押さえつけられているようでどうも窮屈です。
ホールに入って、実際の状況を見て、どこに座ろうかなあ~と選ぶ自由がない。
パソコンのモニター上で席を選ぶのとそんなに変わらないようで、だいぶ違う気がします。
そして、もし、前後左右、近くの席にうるさい人とか臭う人などが座ることになっても、他の席に移動できないのです。
そういうことになったならば、仕方なく、暗くなるまで待って、席を移動するしかありません。

そして、また、その映画館では、腹立たしいこともありました。
本編上映前の予告編が異常に長いのです。
10本ぐらいはあったでしょう。15分くらい続きました。変な映像を見せられた上に自分の時間を奪われた気分になりました。
後で考えるに、予告編1本でいくらかの広告費が入ってくるのではないでしょうか。広告費をたくさん得るために何本もの予告編を流すのでは。。。映画館の状況が厳しいということの表れかもしれません。

こんな経験をした後日、清水ミチコの『主婦と演芸』を読みました。
そして、清水ミチコも同じように感じていたので、心の中で拍手をしました。以下、引用です。
・・・・・最近の映画館の困るところは、最初に係の人から席を決定させられるところです!あれ、もうやめませんか!劇場に入ってから自由に席を決めたいです。(なんとなく、あのあたりはヤだな)って思う時ってあるじゃないですか。何のメリットがあるってんですか?まばらなお客さんの時でも決めようとして。ガラガラやんけ!と叫びたい。・・・・・

映画館には全く関係ないのですが、同書よりメモしておきたいことふたつ:

一つ目
清水ミチコがテレビに出る前にマルセ太郎さん(という芸人さん)との会話の中で言われたこと。
マルセ「あんた、これからどうすんだい。ライブをやったあとサ、生活は」
清水「はい。正直、ダメだったらもともとだと思って、あきらめます。実は来年結婚するんで、主婦になると思います」
マルセ「あんた。そんな簡単な。さあ、もうやめよう、と思ってやめられるもんなんかじゃないからサ。舞台に立つっていう快楽はあんた、そりゃすごいもんなんだ。やめられなくて仕方なくなるよ。ギャラなんかちっともいらなくなるんだ。それを覚悟の上で、出た方がいい」
二つ目
清水ミチコが森山良子のライブにゲスト出演した際、皇后さまがおいでになり、終演後お目にかかった時におっしゃられたこと。
ニッコリと「同じお名前ですね。お目にかかれまして、よかった。とてもお上手でいらっしゃって。あれは、どのようになさるの?でも私、歌の時お名前が時折わからずに、(側近に)聞いてしまいました。お名前を聞いて、それでわかって、また、おかしかった」
清水ミチコはそのお言葉に失神寸前で「美智子さまのご成婚パレードを見た両親が、私の名前を美智子に決めたのです。今日は光栄でした」と言えなかった。

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# by yamabato_za | 2018-03-01 00:28 | 図書室 | Trackback | Comments(0)