フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記

14歳のフジコ・ヘミングの絵日記の絵がとてもチャーミング。色のセンスもあって、目が楽しめる。
ドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』で彼女のパリや下北沢、サンタモニカにある家の室内が映っていたが、どこも素敵な空間だった。
とてもおしゃれだったというお母さんとデザイナーだったというお父さんからの影響だろう。



14歳の時の絵日記だけでなく、絵日記の間に挟まれている思い出話の文章もチャーミングだ。
読んでいると、ウルウルしてくる。
映画の中でも言っていたし、この本のなかでも触れているが、「センチメンタルもいいじゃない」のフジコさんだから?
知らなかったが、これまでに彼女はずいぶんたくさん本を出している。
彼女の言葉が魅力的で、それによって励まされる人がいるのだと思う。うなずける。

以下、備忘メモ:
・戦争が起きたため、フジコが5歳の時、スウェーデン人の父は祖国に帰される。しばらくの間、父からの電話があったものの、二度と会うことは無かった。

・小学校は創立間もない緑岡小学校(現・青山学院初等部)に入学。クリスチャンの学校で英国人・中国人もいて、ハ-フでもいじめは無かった。

・小学校卒業の頃、祖父の故郷、岡山に疎開。祖父は大坂で大月インクという会社を興していた。

・岡山の女学校で、髪にリボンをつけて行ったら、先生に怒られ、それから学校に行かなくなる。しかし、ピアノが学校にしかなかったので、ピアノを弾くためには学校に行っていた。

・戦争が終って東京に戻ったが、渋谷の家が焼けてしまったので、三鷹台の伯母さんの家に母・弟とともに身を寄せる。この伯母さんは日本画家でお茶の先生でもあり、絵はこの伯母さんから習う。

・このころ、フジコ、足の水虫に悩まされる。栄養失調のせいではないかとのことだが、痒いというより痛いのだそう。
そこで思い出されるのが、成瀬巳喜男監督の『浮雲』で森雅之が高峰秀子に水虫が「痛いんだ」ともらしていたこと。
この映画の時代も戦後すぐ。当時、水虫は(栄養失調で)痛いのが当たり前だったのかもしれない。

・フジコが着るものを何でも縫ってくれた母の影響で、フジコも縫いものが好き。人形も作っている。

・母のことは大嫌いで大好き。母ほど純粋な人を知らない、母のおかげで今の自分がいる、と言う。

・ピアニストとして成功できず、ピアノを教えてドイツで生活していた日々。飛べない赤ちゃん鳩を拾って飼ったことがあった。
鳩は家中糞だらけにしてフジコのピアノを聴いていた。ある日のこと、フジコのピアノを聴いて、羽を広げてコサックダンスみたいに躍り出した。自分のピアノで踊り出した鳩に救われた気がした。

・今でも演奏会の前はドキドキする。そういう人の方がうまい。繊細な人の方が人を巻き込む力があると思われるとのこと。

・“小さなころから「ここではないどこか」に憧れて、あちこち居を移してきました。けれど、どこも気に入らなかった。もっといいところがあるんじゃないか。ずっとそう思ってきたけれど、この世界に楽園はない。きっと、天国にあるのでしょう。”本文より引用)

・「おわりに」の中で、“幸せな人生だと思います。”というフジコに小津安二郎『東京物語』の老夫婦が重なった。

ついでに、映画『フジコ・ヘミングの時間』で気に留まったことメモ:
・フジコ・ヘミングはマネージャーを付けず、すべて自分でやっている。

・南米へのコンサートツアーでだったか、演奏するピアノの調子が悪く、いい音がでないとあきらめのため息をついていた。

・米国&南米でのコンサートツアーでトルコ行進曲を演奏していた。

・オーケストラとの共演コンサートリハーサルで、耳の調子が悪く、よく音が聞こえなかったせいで、うまく合わなかった。指揮者がフジコに対してずいぶん強い調子で何か言っていたのに驚いた。それに対してフジコは悲しげに耳がよく聞こえないのだと説明していた。その指揮者とはよく共演している間柄。

・日本でのコンサートで弟の大月ウルフが客席に来ていて、それをフジコはステージから見て知っていた。コンサートが終った時、弟はフジコに挨拶もせずに帰ったらしい。フジコは「帰ったの?」と言っていた。

・日本でのコンサート開催の関係者だろうか、ひどく太っちょの男性がいて、どこかで以前、見たことのあるような気がした。

・フジコは有名人の住んだ家を見るのが好き。自分の名前は残らなくても、自分の家を残したいと言っていた(と思う)。


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# by yamabato_za | 2018-09-16 18:28 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

レコードと暮らし

レコードと暮らし』の著者・田口史人氏は、自主制作盤とオリジナルものを扱う「円盤」という店を高円寺で営んでいます。
お店のことも田口氏のことも知りませんでした。特にレコードに関心があったわけでもなく、何となく手にし、読み飛ばそうと開いたのですが、意外にも、非常に面白かった。

この本の中で紹介されているレコードは、個人が自主制作したものや、広告用に作られたもの、教育のためのもの、おまけとして作られたものなどです。
その中で気にかかったものを以下に記しておきます。

・フォノカード(紙のレコード)の年賀状、1961年の10枚セット300円。こんなものがあったとは知りませんでした。楽しそう。
・手紙の代わりにレコードを送ろうと言うアイデア商品「声のゆうびん」:
その場でレコードに声を吹き込み、手紙として送るという郵便局が試みたサービス

・カルピスが宣伝用に配布した5枚組フォノブック「声のアルバム」:
お父さま編は、森繁久彌を案内役に<歴史に残る貴重な声>を収録(エジソン、乃木大将、チャーチル、ケネディなどの声)
お母さま編は、小島正雄が案内役で<歴史を色どった声>(ケネディ夫人、ウィンザー公、トルストイなど)
お兄さま編は、藤村有弘が案内役で、<マイッタ!マイッタ!おかしい声>の珍音集(外人落語「ガマの油」、ウルトラ珍奇いびき選、おっさんたちの戯言集など)
お姉さま編は、高島忠夫が案内する世界の美しい歌声
お子さま編は、友竹正則が紹介する西六郷少年合唱団(なつかしいっ!!)日本の子供の歌

・ピアスドライアンというローションにおまけとして、容器の首のところ付いていたとても小さいレコード:
「ふるえてきこう失神スリラー」「国籍不明ヘンな外人が歌う日本の歌」など内容はくだらない。

・文学者のレコード:
谷崎潤一郎がNHKラジオで三夜にわたり自作『瘋癲老人日記』を朗読したもの。音楽は武満徹。
富岡多惠子が作詞し、歌ったレコード「物語のようにふるさとは遠い」。作曲は若き日の坂本龍一。著者いわく、背筋の凍る逸品だとか。

・クオリティーの高い絵入りピクチャーレコードを作っていた日本ミュージカラー・レコードは、商品開発だけでなく、モンキーズ・ファンクラブを運営するなどベンチャー企業でもあったが、ジョリー・ランドというレコードを使ったおもちゃを発売した。レコード盤面にコマ送りのアニメーション漫画を描き、ターンテーブルにその絵を映す鏡を取り付けたもの。レコードを回して音楽を聞きながら、鏡に映るアニメが楽しめる。

・黛敏郎が1971年に制作した音楽教育用レコードボックス。10枚組LPレコードと冊子3冊のセットで講談社から発売。黛の他、谷川俊太郎、小泉文夫らが監修。
案内人・黛敏郎が、岸田今日子演じる男の子トンテと中村メイコ演じる女の子ラーラに色々なことを教えたり、実演させる。
とんでもなく楽しく、かつ、充実した内容なのだそう。
第1部 耳をすまして<音楽ってなあに 音楽ってなあに> 脚本:谷川俊太郎
第2部 リズムズムズムズン<リズムのたのしさ おもしろさ> 脚本:川崎洋
第3部 メロディファソラシド<うつくしいメロディのひみつ> 脚本:川崎洋
第4部 ハーモニーの町<なかのいい音わるい音 >脚本:川崎洋
第5部 歌がなかったら<遊び歌・仕事歌・祭りの歌・祈りの歌> 脚本:谷川俊太郎
第6部 マーチですすめ、ゴーゴーでおどれ<マーチとダンス> 脚本:川崎洋
第7部 音楽のこころ<音楽の感じ方> 脚本:谷川俊太郎
第12部まで続く。

・アイドルの声が聞けるブロマイドとして作られた「ウィスパーカード」:
憧れのアイドルの数分間のおしゃべりが入っている。山口百恵、沢田研二、アグネスチャン、堺正章、岡崎友紀など

・絵かきうたのレコード:
「ピンポンパン」の初代音楽担当だった玉野良雄が、番組企画で新しい絵かきうたを作る。障害者施設から反響があり、玉野氏は絵かきうたから造形リトミックという教育法を開発する。水森亜土が歌う「新しい絵かきうた のりもの編」は、造形リトミックの教科書とも言える最初の完成形。

・「すぐに役立つ!!実用レコードシリーズ13 うぐいす・めじろ」:
効果音のレコードでなく、うぐいす・めじろの名称を録音したもの。鳴き声の美しさを競う品評会などのために、鳥に聞かせて調教する。

・1942年直島生まれの佐義達雄さんの自主制作レコードの数々:
直島で働きながら自作の曲を自分でレコーディングし、500枚プレス。それらを全国の有線放送局に送り、リクエストしてみんなに聞いてもらうという活動を続ける。これまでに『漁師一代』と『おやじの海』が注目され、後者に至っては数々の賞を獲得し、直島に歌碑まで建っているという。

・1978年都電荒川線の新装記念に作られたレコード乗車券:
ソノシート盤の外周が、大人3回分、子供2回分、地下鉄乗車券1回、バス乗車券1回の乗車券になっている。レコードに収録されているのは、三遊亭圓右が語る荒川線沿線ガイド。楽しそう。

・沼津市立大岡中学校86年桔梗祭のステージを収めたレコード:
1986年春、大岡中学校に鈴木先生が赴任してくブラスバンド部にカツを入れて地区予選突破を目指すためだ。
鈴木先生の情熱と努力の末、始めは反発もあったが、ブラスバンド部だけでなく、学校全体がまとまっていく。
しかし、地区予選突破はならなかった。皆の落胆は大きかった。
ここでまた、鈴木先生がカツを入れる。秋の文化祭・桔梗祭をブラスバンド部が中心となって学校全体を燃やすんだ!
そして、「スポーツショー行進曲」で幕を開け、「Song for U.S.A.」で幕を閉じる感動のコンサートが開催された。
この経緯が著者によって熱く語られる。
最後の3年生の挨拶が素晴らしく心に響きます。

紹介されているレコードの写真もカラーで載っています。


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# by yamabato_za | 2018-09-07 19:41 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

ワイズベッカー作品集

1942年生まれのフランス人イラストレーター、フィリップ・ワイズベッカーの作品集が出ました。

分厚い本です。
過去20年の作品から、描かれたものによって、建物、容器、交通、ミリタリー、キャンピング、道具など12のカテゴリーに分類されて収められています。
初めて見る作品がたくさんあり、楽しめます。
彼のアトリエの様子もカラー写真で紹介されています。
また、、ワイズベッカー氏へのロングインタビューが英日のバイリンガルで載っています。
彼の生い立ちから、イラストを描くようになるまで、今のスタイルに至るまでを、本人の語りでたどり、知ることができます。
このインタビューが素晴らしい。よく自分のこれまでの足取りを、ユーモアを交えながら、しっかりと語れるものだと感心してしまいました。
面白かったのは、美術大学に入りたいと先生に相談すると「ドローイングの能力が低すぎるから、大学入学は無理!」と言われショックを受けながらも、二浪して難関突破し、
35才の時にパリでイラストの仕事をしようと思い、ポートフォリオを持って回ったところ、アートディレクターから「その年齢で自分なりのスタイルを見つけるのは無理だろうから、イラストレーションは止めてしまった方がいい」と言われて打ちのめされながらも、あきらめなかったという話。
写真で見るワイズベッカー氏は、痩せていて飄々としたおじいさんといった風貌なので、そんな過去はちょっと意外な感があります。
30代の初めには、フランスで出会って一目ぼれした現在の奥さんへの愛のために、住んでいたニューヨークからフランスに戻っていたりもします。

そうだったのか!と思ったことは、彼が線を定規を使って描いているということ。
フリーハンドで描く線は緊張感に欠け、好きでなかったけれど、定規を使うと描くペースが遅くなって、脳の意図通りに描けるようなったそうです。
描き直す場合は、消しゴムで消して同じ紙に描く。それは、紙を節約するためではなくて、試行錯誤を通して見える時間の感覚が好きだからだそうです。
50代後半にして今のスタイルに至り、58才の時に日本に紹介され、それから18年。
ここ10年は日本の仕事しかしていないそうです。注目されているのは日本限定にしても、晩成ということですね。
分厚い本は苦手なので、この作品集は遠慮して、トラックや自動車が描かれたcarのマスキングテープを手に入れました。

最新号の『イラストレーション』でも特集されています。


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# by yamabato_za | 2018-09-02 22:38 | 図書室 | Trackback | Comments(0)

ケチャ祭り 2018

芸能山城組のケチャ祭りが西新宿の三井ビル55広場で8月1日から5日まで開催されました。
今年で43回目だったようです。
(芸能山城組は山城祥二氏が率いる主に大学生を中心に集まった芸能集団。祭り参加メンバーには白髪頭の人や頭髪薄めの方も散見されましたが。。。)
メインのケチャ(夜8時から)に、ブルガリア女声合唱とジョージア男声合唱(夕方5時から)ほか、ガムランの演奏やバナナのたたき売りといった演目が披露されました。
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バナナのたたき売り(左端に黄色いバナナマンがいます。)↑
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インドネシアの楽器の演奏(右側がステージ)↑

インドネシアの民芸品や茨城県の杉線香、江戸風鈴などの出店もちょこちょことありました。

久しぶりに観たケチャの猿軍団に、小中学生とおぼしき男子が混じっていたのに驚きました。
以前は演目に上がっていなかったジョージアの男声合唱がなかなかよろしく、蝉の声と風鈴の音と共に、風に舞う赤いのぼりを見ながら、一息つけました。

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←茨城県の杉線香
茨木は山城氏の馴染みの土地だということで、売られているらしい。
ネットで調べると、このお線香は、杉の粉だけで作られている、とありました。
粉末にした杉を練っていると自然に粘りが出てくるのだとか。
驚きました。
左のひと束で100円。
香は実に普通です。
(パッケージが少し怖い、、、)


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# by yamabato_za | 2018-08-04 12:46 | インフォメーション | Trackback | Comments(0)

青森ひば

6月19日は桜桃忌だった。玉川上水に入水自殺した太宰治が見つかった日で、かつ、太宰の誕生日である。
以前は、当日のテレビニュースで必ずと言っていいほど、恒例の行事として取り上げられていたように思うが、今年はそれがなかったように思われる。
今年に限らず、ここ最近ないのかもしれない。
ああ、そうか、桜桃忌だったのか!と思い立って、『津軽』を再読し始める。
『津軽』の中で、太宰が志賀直哉を悪く言っているらしいので、それを確認しなくてはいけなかった。

再読前半部分での発見は「青森ひば」である。
津軽と言えばりんごと思われがちだが、りんごで有名になったのは大正からに過ぎない。
「ひば」は津軽藩祖の遺業から始まり、木曽のヒノキ・秋田のスギと並ぶ日本三大美林のひとつになっている。ひば林をはじめとした青々とした森林こそが青森の誇るべきものである、と太宰は力説している。

ネットで調べると「ひば(檜葉)」は日本固有種で、ヒノキ科アスナロ属の針葉樹。
別名「ヒノキアスナロ」。
ヒノキアスナロは、もともと本州南部の高い山や四国、九州に分布する「アスナロ」が、寒い北の地方で育つように変種したもの。一般にはこれらを総称して「ひば」と呼ぶことが多いと言う。
(参照:「きこりんの森」の森の樹木図鑑より)
木材として耐久性が抜群で特に水湿に強い。また、香木でその香りにはリラクゼーション効果がある。

そして、フッと思い出した。実家の塀に沿って植えられた木のことを姉が「ひば」と言っていたことを。
実家のその「ひば」を私は時々剪定していた。
枝がヒューッと伸びて電線に届きそうになるので、高枝ばさみで枝の根元の方からバッサリやっていた。
その時にいい香りがしていたかどうかはよく覚えていないが、同じ「ひば」はご近所の庭の生垣などに使われていて、植木屋さんがチョキチョキやっている側を通ると、いい匂いがしていたのは確かである。
だから、やはり、あれは「ひば」だったのだろう。
しかし、私は実家のひばが好きでなかった。
木肌がうろこ状にモコモコしているのが嫌だったし、幹に近い内側の葉が枯れて茶色くなるのも気に入らなかった。
優れた木材になる木だとは露知らず、香木としてアロマ効果があるとの認識もなく、よく庭木として使われる手頃な木だとばかり思っていた。
それが、中尊寺の建設にも使われたという優れた木であったとは驚きである。

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↑庭木としてよくみかけるヒバ(多分、チャボヒバというものだろう。)

さらに、
ヒノキアスナロとアスナロを総称してヒバと呼ぶのであれば、ヒバ=アスナロである。
そして、アスナロと言えば、、、小さい頃よく耳にした歌♪あすなろ、あすなろ、明日はなろう♪明日は大きなひのきになろう♪である。となれば、私が剪定していて、あまり好きでないと思っていた木は、♪明日はひのきになろう♪のアスナロだったということである。
自分がアスナロを剪定していたとは、、、
(あすなろの歌では、アスナロ=ヒバは、ヒノキより格下の存在とみなされている。しかし、それは何かの誤解による誤りであるということになる。)

ところが、、、最後にヒノキを調べてみると、「チャボヒバはヒノキの園芸品種である」の記述あり。
実家の「ヒバ」は、ヒバはヒバでもこの変な名前のヒバに違いない。
一時、盛り上がったものが元通り。アスナロもなくなりました。

さて、太宰が志賀直哉を悪く言っているということの確認である。
確かに悪く言っているが、人の悪口を言う自分も卑しい奴であると自覚し反省しながら言っている。
そして、悪口を言った少し後に、友人宅にあった志賀直哉の随筆集を読んで、次のように思っている。
「いい文章を読んでほっとしていたのである。アラを拾って凱歌などを奏するよりは、どんなに、いい気持のものかわからない。ウソじゃない。私は、いい文章を読みたい。」


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# by yamabato_za | 2018-07-13 14:40 | 図書室 | Trackback | Comments(0)