Eテレ日曜美術館(2024年1月21日放送)が坂倉準三(1901ー1969)特集だった。 坂倉準三と言えば、馬鹿の一つ覚えで、国際文化会館(の設計者の一人)と思うばかりだったが、新宿西口ターミナルを設計していた。 (東京日仏学院と岡本太郎記念館も!) 坂倉準三のウィキペディアを見て驚いたことに、妻が西村伊作の娘(次女ユリ)だった。 西村伊作は神田駿河台にあった文化学院を創った人である。 以前、白洲次郎をネットで調べていて、彼が出てきた。 二人を結び付けたのは松岡正剛氏で、白洲次郎と同じ位に美男子なのにあまり人気がない、と 「千夜千冊」1218夜『大正の夢の設計家』( https://1000ya.isis.ne.jp/1218.html )で書いていたのである。 長文だったので、後で読もうと思って、そのまま1〜2年経ち、つい最近やっと読んだところだった。 興味深い様々な話(叔父が大逆事件の大石誠之助であることなど)の中で、ははあ!と独り合点したのは最後の部分。 神奈川県立近代美術館が、「ジョン・ラスキンと近代日本展」(1997年)と「モボ・モガ1910ー1935」(1998年)において、西村伊作を取り上げ、更に、2002年には「西村伊作の世界」展を催した。 松岡氏はそのことに対して、〝端倪すべからざる知見〟とこの美術館に賛辞を送っている。 さて、神奈川県立近代美術館は、日曜美術館でも紹介されていたように、坂倉準三設計。 設計者の岳父が西村伊作(1884ー1963)。 このつながりによって、この美術館は伊作に積極的であったのではなかろうか。 坂倉準三のウィキペディアを見てもう一つ驚いたことは、彼がスメラ学塾に関わり、伊作から「一種の誇大妄想狂だ」と評された、ということ。 スメラ学塾と言えば思い出す、原節子の義兄・熊谷久虎。 彼もその活動をしていたと『原節子の真実』にあった。 #
by yamabato_za
| 2024-03-16 11:57
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あるシンポジウムで、建築家・吉阪隆正(1917ー1980)について、話を聞く機会があった。 その前の時点で、吉阪隆正の名前は知っている、と思っていたが、国際文化会館を設計した三人のうちの一人である吉村順三と混同していたと思う。(どちらも吉で始まり四文字。他の二人は、前川國男と坂倉準三。) それはさておき。 アテネ・フランセの建物(現存)が、彼の設計だったとは! フランス語堪能、早稲田大学と関係深く、アルピニスト(山の人)でもあった。 更に、少し後に気が付いたことには、鈴木京香が買い取って保存されることになったヴィラ・クゥクゥが彼の設計であり、2022年に東京都現代美術館で展覧会も開催されていたのであった。 シンポジウムの話で、気に掛かったことあり。 吉阪は1950年代にコルビュジェのところで(2年間)働いたのだが、「コルビュジェは理性的な人を想定して考えているけれど、人間はもっとだらしないもので、そういう人のことを考えて創らなければならないのではないか」という思いを持って帰国した、と聞いた。 聞き覚えなので不正確だろうが、だいたいそんな内容だった。 それがどうにも気に掛かり、講演者・倉方俊輔氏の著書『吉阪隆正とル・コルビュジェ』を読むことに。 以下は、同書からの抜粋(引用)メモである。 ※高層のアパートの下の階などというものは、昼だか夜だか、晴れているのか曇っているのか、それさえわからないのです。一日中電灯をともしているそんな部屋の中での生活は私には堪えられない。生活はして行くかもしれないけれどもとても淋しいのです。多分パリーの人々も暗々にそう感じていると思います。だから皆天気になると公園へ出て来るのだと思います。(略)日本ではその習慣がないのは、住宅そのもので、既に十分とはいかぬまでも、自然に恵まれているといえるでしょう。(吉阪の言葉、1951年5月)69p ※父母らの厳格な倫理は、個人道徳中心であった。個人が道徳を守ることによって社会の秩序が維持されるという基盤の上に立っているのです。しかし二十世紀後半は何だかそれに頼り切れないのです。それはインテリ階級にしか通用しない倫理なのです。インテリが何らかの力を持っていた間はそれでよかったでしょう。今はインテリの力が社会の中の一つの力でしかなくなったのです。もっと本能的に動く人々、そうした人々の方にも強い力が生れてきたのです。その人達には抑圧的な倫理、自制的なものにたよる倫理はなかなか行われにくいのです。だから、もっと生物的な現象を尊重した、しかし自堕落に陥らない形のものを見出さねばならないと思うのです。(吉阪の言葉、1951年3月)72p ※簡単なものですね人間なんて。そとの刺戟如何でヒョロリヒョロリとかわるのだから。思えばなさけないものです。でもそうなるんだということ知っている人は少しは知らない人より幸福になり易いかも知れないと思います。(吉阪の言葉、1952年5月)78p (←倉方氏の配布資料より 現存する作品のうちの二つ) ※フランス留学の意味を考える際、(略)最も大きな出来事は、やはりル・コルビュジェとの出会いだったといえる。ル・コルビュジェの魅力は、今和次郎と親近性の強い「住居学」の意義を、半ば逆説的に再認識させた。その上で彼がとった態度は、ル・コルビュジェと「住居学」のどちらも捨てない、ということだった。一方で、ル・コルビュジェを「住居学」的に咀嚼し、他の多くの建築家とは異なるル・コルビュジェ認識を得る。他方で、「住居学」を現代建築と照らし合わせて、批判としての存在意義を確信し、造形による提案性を加える。80p (略) 建築をめざして、吉阪はフランスに旅立ち、ル・コルビュジェに出会った。ほれこみ、咀嚼して、自分の「建築」をつかみ取った。 ※〈対照性〉が併存した構成も、吉阪のアイデンティティの一つである。ここにもル・コルビュジェからの受け取りが感じられる。(略)〈全体〉と〈部分〉の構成は、ル・コルビュジェと吉阪とで異なっている。ル・コルビュジェの建築において、部分は全体に支配され切らず、それぞれの存在を主張している。それでも、部分が寄り集まって全体になるという階層的秩序は保たれている。吉阪の建築では、階層的秩序が弱い。(略)各部屋は自分の役割に沿おうとし、細部はその意味を追い求める。それらがぶつかり合いながら、建築が成立している。142-143p ※吉阪建築の特徴 153p 1、素材→建築に可能性を求める心理にもっとも適した、コンクリートを好んだ。 2、形態→行動を誘発し、心理に働きかけるような、形の意味を追求した。 3、構成→理性的・理想的なだけでない人間像に対応して、対照性を併存させた。 4、動線→交通を促進し、それ以外の機能も併存させて、にぎわいを生み出した。 5、自然との関係→人為的介入によって眠っていた自然の資質を活用した。 ※ル・コルビュジェは山より海が好き。吉阪は海より山が好き。(略) ル・コルビュジェのピロティは上に伸び上がり、眺望を獲得する。対する吉阪のピロティは、地面との関係を調整することに一義的な意味があり、眺めにはさほど重きが置かれない。ル・コルビュジェにとって自然は何よりも〈景観〉であり、吉阪にとっては〈大地〉なのである。〈景観〉と〈大地〉という自然観を、〈海〉と〈山〉の特徴になぞらえることができるだろう。前者は視覚的であり、後者は感覚的である。155p ※身体を包み込み、独りになれる〈海〉に対し、〈山〉への挑戦には通常、緊密な人間のつながりが欠かせない。(略)〈海〉と〈山〉への好みを延長すると、均一性と多様性に至る。(略)〈海〉と〈山〉というキーワードは、ル・コルビュジェと吉阪の作風や行動の違いを、的確に取り出してくれる。(略)吉阪は、その違いを、出会って間もない頃から直観していた。〈海〉への志向はル・コルビュジェの建築に陽光や健康を求めさせただけでなく、〈単独者〉や〈均一性〉の影も与えた。 講演者著作を頑張って読んだが(字が多くて大変。。。)、気に掛かったことはスッキリ解消されず。 吉阪には、自分のことを「乾燥なめくじ」に見做して語った著作があるらしく、興味が引かれるものの、またの機会に。 #
by yamabato_za
| 2024-03-09 18:23
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里見弴ファンと思われる女性のブログを拾い読み。 ある記事で、ブログ筆者の(多分)ご主人が、文学好きの彼女が喜ぶだろうと思って、お土産に買ってきたのが、林忠彦『文士の時代』(中公文庫)。 林忠彦は、太宰治を銀座のバー・ルパンで撮った写真で有名なカメラマン。 ブログ筆者の好きな里見弴の写真ももちろんあるのである。 この本がにわかに気になり、図書館にあったので借りてきた (紹介されていたものより古い版で朝日文庫)。 121人の文士が載っている。 中島健蔵、杉森久英、北条誠などといった聞いたことのない名前もある。 林忠彦の筆による文士の人となりやエピソードが付いているものと写真だけのものがある。 121人の中で一番気に入った写真(←)は内田百閒。 林によると、 玄関口に 「世の中に人の来るこそうれしけれ、 とはいふもののお前ではなし」 という札がかかっていて、 百閒を囲む会「摩阿陀会(まあだかい)」では、 打ち上げは百閒の琴を聴くのがしきたりだったそうである。 写真だけで気に入ったのは野間宏(←)(作品は読んだことなし)。 女文士では芝木好子の写真(→)に惹かれた。 作品は読んだことがないが、川島雄三監督「洲崎パラダイス赤信号」の原作を書いた人だ。 エピソードで面白かったのは『楢山節考』の深沢七郎。 日劇ミュージックホールのギタリストだった。 書いた作品がもとで右翼に追われて行方知らずに。 埼玉でラブミー農場。その後、下町で今川焼き屋を始める。 今日出海の兄が今東光とは知らなかった。 小林秀雄と亀井勝一郎も雰囲気が似ているが、 井伏鱒二(1898〜1993) と 武者小路実篤(1885〜1976) は混同しがちなので、 イラストにして違いを認識しておこう。 ちなみに、武者小路実篤の記念館が仙川にあるそうで、前述ブログ筆者が訪れていた。 新版、林忠彦『文士の時代』は、坂口安吾の表紙。 (参照ブログページ→ https://garadanikki.hatenablog.com/entry/2014/10/17/「文士の時代」_著・写真:林忠彦)
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by yamabato_za
| 2024-02-28 13:20
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浦野理一は、小津安二郎監督の『東京暮色』(1957年)から『秋刀魚の味』(1962年)(『浮草』は除く)までの着物を考撰した人である。 小津安二郎生誕120年だった2023年に「染織工芸家 浦野理一の仕事」という本が出た。 カバーは、浦野理一の代名詞と言える経節紬(たてふしつむぎ)の写真。 一般的に、紬は横糸にのみ節のある糸を使う。 なぜならば、縦糸の節は筬(おさ)にひっかかりやすく切れやすく、織るのに時間と手間と熟練が必要だから。 しかし、浦野の紬は縦にも、玉繭からわざと節ができるように調節した「ひょうたん糸」を使った。 理一の経節紬を、次男・範雄が後継したが、良質の国産繭の入手が困難になったため、2012年工房は閉鎖された。 特記メモ: ・浦野理一が節のある紬で表具屋に作らせた愛蔵書のカバーが2点掲載されている。 包まれた愛蔵書がどちらも岩野泡鳴(、、、「闇の盃盤」「耽溺」)。 ・〈小津映画のきもの帖〉パート冒頭に小津安二郎の言葉が載っている。 それが、直前に読んだ「小津安二郎に憑かれた男」の中で、著者・永井健児が反発したこと(小津は小道具に本物を使うが、高価な本物を使っても、スクリーンにはっきり映らないのに)の答えになっていた。→ 〝私は小道具や衣装にうるさいと言われる。 しかし例えば、床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る。 出て来る俳優もそうだろう。 また、人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない、ホンものはやはりよく写るものである。〟 (「小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」) ・小津安二郎の日記が抜粋引用されている、その中から→ 1960(昭和35)年11月17日(木) 二の酉 終日在宅 ねてゐる内に笠が〈坂本繁二郎夜話〉をもって来てくれる 通読 夕方浦野が白木屋の部長と秋日和の衣装のことでくる ・掲載写真(134p)で 野田高梧の長女・玲子さんが着ているのは、 浦野の着物だろうか? ・『彼岸花』(1958年)で田中絹代が着た幸田格子。 同年、幸田文全集が刊行開始となり、カバーに浦野が考えた「茶と薄鼠の子持格子」を使用、幸田格子と呼ばれる。 以下、小津安二郎映画のDVDから、浦野理一の着物。 『彼岸花』幸田格子の田中絹代↓ 『秋日和』の原節子↓ 『小早川家の秋』の原節子↓ #
by yamabato_za
| 2024-02-17 14:01
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下河原友雄は、小津安二郎が松竹以外で撮った3本の映画(「宗方姉妹」「浮草」「小早川家の秋」)で美術を担当した人である。 彼のアシスタントだった永井健児が下河原のことを書いた『小津安二郎に憑かれた男』(1990年)を読んだ。 この本は、田中真澄編集『全日記 小津安二郎』の序で紹介されていて(小津日記をまとめる端緒に、この本の執筆が絡んでいる)、興味を持った。 下河原が「宗方姉妹」(1950年)の美術を担当することになり、著者がアシスタントとして呼ばれる。 下河原はその時既に小津の信奉者だったが、著者は当時二十二歳と若く、小津の映画を知らなかった。 観ていたのは黒澤明で、小津に問われて「野良犬」が良かったと答えた。 「宗方姉妹」の撮影が進む中で、著者は小津、そして小津に盲従しているように見える下河原に反発を覚えるようになる。 斎藤達雄と田中絹代の演技が気に入らず、小津が厳しく何度もやり直しをさせたことが書かれている。 (「東京物語」で大坂志郎が酷く叱責されたという話は有名であるが。) 斎藤は、冒頭の授業のシーンでNG続出。 「達!何度言ったらわかるんだ!単なるサラリーマンじゃあないんだ。威厳の中にぬくもり、、、」 「何十年役者やってるんだ!」などと、 絹代は「夫にいくら問いつめられようと、自分は潔白なんだよ。そのもどかしさが出ていないんだ。、、、」 「争っても、まだ別れようとは思ってもいないんだ。その微妙さが出ていない」 「田中君!目線がずれてる。、、、、」などと 言われていたと言う。 見ていた著者は、NGとOKのカットとの差が分からず、観客が果たして小津の言うような細かい情感に気付くだろうかと考える。 「宗方姉妹」の上原謙はフランス帰りで、神戸で家具を売っている。 店の2階の部屋にはフランスで手に入れた装飾品や美術品が飾られている。 本物主義の小津は、銀座の高級レストラン「花馬車」に飾られていた本物を経営者のボウ新田から借りることにする。 中には何十万もする高額な物もあった。 それらを運搬・管理するのは著者の仕事である。 本音では、そんな高価な本物を使っても、スクリーンにはっきり映らないのに、、、と思いつつ、現場では壊されないように神経を使い、かつ、盗まれないように撮影所に寝泊まりした。 田中絹代のバーの小道具として、コーヒーミルとスタンド式大型電蓄が欲しいと言われる。 戦後まだ5年の当時、コーヒーミルは一般的になかったし、バーにあるのはおかしいと著者は思う。(結構、色々と引っ掛かる人である。) そう思ったものの、ミルは見つけた。 電蓄は、ありそうな大邸宅を一軒一軒訪問し、尋ね周った。 何とか候補を3点見つけ、サイズ入りのスケッチを小津に提出。 そのうちの一点に決まり、セットに持ち込んでみると、高さが足りない、他を探すように言われる。 不満が蓄積していた著者は、ここで遂に「ちゃんと高さを書いていたでしょう!」と小津に反旗を翻し、頑として動かなかった。 撮影は仕方なくそのまま行われた(今観る「宗方姉妹」のバーに電蓄もコーヒーミルも見当たらないようだが)。 試写の時には機嫌を直していた下河原から、小津が「他社での仕事だから楽しくやろうと思っていたが、現場に入ると、つい地や欲が出てしまい、うるさく口出してしまった」と言っていた、と聞く。 高杉早苗の家に鎧兜が欲しいと小津が言った時も、著者は、フランス帰りの人のモダンな家にそんな日本的な物を置くのはおかしいと反発していた。 (鎧兜は置かれ、高峰秀子が高杉早苗邸を去る時に、この鎧兜に拳骨を飛ばしている。 このちょっとしたリアクションを考えて鎧兜が必要だったのか??? ちなみに、秀子は拳骨の前に何故か太ももを露わにしてストッキングを直している。これは一体???) さて、下河原友雄の方である。 酒好きで、話し上手。中国戦線に従軍した。二十歳で結婚。 「宗方姉妹」の頃には、香雄、希雄という二人の子供がいて、小津もかわいがったらしい。 彼がいた新東宝は経営難で給料の払いが悪く、妻からしょっちゅう催促されていた。 また、彼女が家で麻雀をやって騒がしいのも嫌で、心は、新東宝を辞めて居所知らずとなった女優・木原美沙子を求めていた。 その後、美沙子と銀座で偶然再会した下河原は、渋谷の恋文横丁に「ミサの家」という飲み屋を二人で始める。 この頃、妻の自殺未遂騒動があり、彼は小津に相談している。 新東宝から大映に移り、渋谷の店がうまくいかず閉店後は、原宿で「アトリエ座」という劇団を美沙子と立ち上げる。 「アトリエ座」は、水森亜土と里吉しげみが加わり解散、里吉の「未来劇場」に吸収され、美術・下河原、音楽・小林亜星で公演した。 下河原は妻と離婚し、美沙子と結婚。 「小早川家の秋」でも小津に呼ばれて美術を担当。 その時、次は時代劇を一緒にやろうと小津に言われたという。 小津の四十九日の際に、『小津安二郎・人と仕事』を出すことになり、編纂委員の一人として下河原は尽力する。 8年のさまざまな曲折の後、1972年発刊。 その後、映画業界の衰退もあり、油絵を描き始め、画家として生きようと決心する。 1974年、57歳の時、イタリアへ移住。 池田満寿夫原作・監督の映画「エーゲ海に捧ぐ」撮影をローマで手伝う。 その映画のオールラッシュ当日、気分が悪くなり、病院に搬送されたが亡くなった。 最後の言葉は「小津さんともっといいシャシンが撮りたかった、、、」だった。 #
by yamabato_za
| 2024-01-31 17:40
| シネマ
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